アジアハウス論

ここで何度か触れた山形国際ドキュメンタリー映画祭で出会ったスペース「アジアハウス」についての原稿を掲載します。
雑誌「CITY&LIFE」で書いた山形国際ドキュメンタリー映画祭についてのレポートと重なる部分がありますが、異なる視点で書いています。





●アジアハウス論


 「アジアハウス」というスペースを紹介しよう。山形市本町にある小さな古い4階建てのビル改造したものだ。1階はカフェ、2〜4階は山形国際ドキュメンタリー映画祭の外国人関係者用の宿泊施設、地下1階はレクチャーなどが行なわれるスタジオになっていた。映画祭期間中(2009年10月8〜15日)、宿泊施設をメインにしたスペースである。
 カフェでは閉館された市内の映画館の座席が使われている。まちの記憶を上手に使ったインテリア。1990年代以降現れた、古い建物をリノベーションしたカフェなどで多く見られる手法である。カフェ部分だけではない、シンプルな家具、押し付けがましくないアート感覚、どこか懐かしい空気感……、建物全体がここ10数年のカフェ文化で培われてきたスペース感覚で満たされていた。
 この場所で、アジアハウス設営に携わった人物に話を聞いたのだが、その人の口からドキュメンタリー映画作家の小川紳介監督の話が出た時、とても新鮮な感じを覚えた。
「小川さんたちは、この山形に来て、カメラをまわすまでに数年かけているという。その時間をかけているということ、その方法にはまちに開かれたアートを行おうとしている僕たちが学ぶべきものがある」という言葉だ。
 この山形国際ドキュメンタリー映画祭は、山形市の市政100年記念行事を考えていた行政関係者から声をかけられた小川監督がきっかけとなって1989年から開催されてきた。そのため関係者から話を聞けば、(92年に亡くなっている)小川監督の話は、立ち上げに関わる重要人物として当然何度も出てくることになるのだが、アジアハウスで聞いた先の言葉はそうしたものとは違っていた。ある世代にとっては非常に政治運動的な小川監督率いる小川プロの実践が、アートとまちの関係を考える視点から新たに解釈されていたのである。
 ここで私は、かつて「三里塚シリーズ」など反体制文化の中の最も先鋭的な作品を製作してきた小川プロの実践と、今年映画祭に登場したカフェ空間的な宿泊施設を結び、アジアハウスがもっている意味を考察してみたい。


●小川プロの生活現場と闘争現場を結ぶ想像力

 山形国際ドキュメンタリー映画祭は、89年より2年毎に開催、今年で第11回を迎えた。2005年まで山形市が、07年の前回からはNPOとなった山形国際ドキュメンタリー映画際が主催している。
 第1回を準備している時期に小川監督によって集められた地元の人々と市役所の人間が初めての映画祭を運営しだした。
 山形の映画祭で興味深いのは、まちの人々が映画を見に来るだけでなく、映画祭に関連する居酒屋や新聞編集部、宿泊施設の運営にかなり積極的に参加しているところだ。そのひとつ、映画祭の宿泊施設として機能したアジアハウスについて語るために、まずは映画祭前史ともいうべき小川プロの活動を振り返ってみよう。
 1968年、小川プロは三里塚闘争の現場に入り撮影を開始、以降「三里塚シリーズ」七部作を連続的に発表していく。その6作目『三里塚・辺田部落』(73年度作品)は、激しい闘争シーンを写し撮っていたそれまでの作品とはうってかわって、辺田部落という共同体で暮らす人々の姿、言葉、表情を前面に出し、それを通して空港闘争が描かれているというものであった。この上映活動の中で小川プロは山形という土地に出会うことになるのだが、ここで作品自体の意味を考えてみたい。
 60〜70年代の文化闘争から生まれた思想的課題の一つに、具体的な闘争現場と自分の生活現場をどう結びつけるのかというテーマがあったと思う。たとえばデモに行っている仲間と、職場で働いている自分を結びつける想像力や、遠く離れたベトナムと自分が関連する企業や学校がどう関連しているのかということが真摯に問われ、その答えとして様々な実践が試みられた。
 その一つとして、小川プロが行なった試みは、闘争現場の中に生活現場を発見し深く潜行することだった。具体的には三里塚の農民と寝食を共にして撮影をすることであり、共同体の運命に絶えず自分の行為をひきつけていく農民たちの言葉を聞き入ること、表情をとらえることだった。その実践の積み重ねとして出来あがったのが、映像として過激な闘争シーンがほとんど出てこない『辺田部落』だったのである。
(自分の生活と闘争現場を繋げていく考え方は、社会変革に向けての積極的な行動に繋がっていくが、同時に社会変革集団の規律に安易に繋がっていく危険性をもっている。こうした想像力は自己の幻想内にある限り正しいが、集団的幻想になる時、集団内部でメンバーの戦闘性の評価に繋がっていき、その最も極端なケースは「総括」、「粛正」へと変貌していく。社会変革を目指す集団には常にそうした問題を抱えているし、小川プロもそのような傾向をもった集団であったことは忘れてはならない)
 『辺田部落』は高い評価を受けたが、小川プロ内部では大きな問題を抱えたようだ。共同体には深く入り込んだが、その要となる農作業が充分に撮れていないという問題だ。もちろん映像としてはかなり撮影されていたが、それは「農作業は汗であり苦労であり、という形でしか迫れてない」と「総括」されたのである。そこで彼らは「僕たちが村いちばんの田植えができるようにならないと、農作業は撮れない」と決意する(1)。生活現場へのより深い潜行である。
 小川プロは73年5月より『辺田部落』の全国上映活動を始める。これは同時に、自ら農作業を行なう次の根拠地を探す旅でもあった。東北上映を担当していた小川氏はこの旅で、翌年、山形県上山市牧野部落への移住を誘うことになる農民詩人たちと出会う。その誘いを受け小川プロは準備期間を経て、76年牧野部落に本格的な移住を行ない映画づくりを始める。そこで製作された代表作が13年もの時間をかけた『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(86年)だ。240年前の一揆を村人たちがプロの役者たちと一緒に再現していくシーンを核に共同体の歴史や文化がゆったりと展開されていく作品である。そして、この土地で培った人間関係の中から映画祭開催の話が持ち上がるのである。


●山形ドキュメンタリー映画祭スペース史

 アジアハウス。古ビルをリノベーションしてできあがった映画祭用の宿泊施設には実は前史がある。同じ名前の施設が97年の第五回より山形の住民の一人によって、自宅を期間中宿泊施設に転用して運営されていたのである。その名が示すように、当初はアジア諸国からきた映画関係者に向けてつくられた施設であった。
 市民が自分の家や店をアジアの映画関係者に開放していくこと。それはこの映画祭ならではの来歴と関係している。1989年10月、第1回目の映画祭が開催されるのだが、発起人の一人である小川監督はアジアのドキュメンタリー映画の活性化を目論んでいた。しかし現実としては80年代のアジア諸国でドキュメンタリー作品はまだ多く撮られていなかったこと、冷戦時代末期の各国の政治情勢の影響などで、かなり難しい試みとなった。
 それでも招待された映画作家たちの交流は90年代以降隆盛するアジアのドキュメント映画の流れを作ることに繋がっていた。そしてもうひとつ、山形に滞在したアジアの映画作家や関係者たちの姿は、このまちの人々に強い印象を与えることになる。
 それはファミリーレストランなどで一杯のビールだけで長時間話し込んでいる姿、あるいは喫茶店で注文したコーヒー一杯の値段が、その人の国では一日分の食費と同じ金額だったという話……。こうした見聞し噂された話が山形の人々に共有され、アジアの関係者にも安心して飲みながら話すことができる居酒屋をつくろうというアイデアになっていく。そこでできたのが、93年の第3回からオープンした「香味庵クラブ」だ。
 漬け物屋のレストランとなっている店舗を期間中夜間借り受け、午後10時から午前2時まで営業する店だ。客は入場料として500円を払うと一杯の酒とおつまみを渡される。後はどこかの席に紛れ込み、今日見た映画の話などをきっかけに話し始めればよい。その後、もっと飲食をしたければ、非常に安い値段で酒や山形名物の芋煮などが注文できるというシステムの店だ。
 映画祭期間中というお祭り気分と映画好きという仲間意識が合わさって、自由なコミュニケーションが展開できるのが、この店の魅力だ。この楽しさを求めて映画祭に来るリピーターも多く、今では世界の映画関係者にKomianの名はかなり知れ渡っているようだ。香味庵を一段階目として映画祭をめぐるコミュニケーションスペースの進展はさらに続く。
 映画祭の目的の一つであるアジアのドキュメンタリー映画の活性化は、90年代中期から徐々に現実化してくる。ビデオ機材の普及などによって、昔に比べれば格段に安い資金で映画を製作できるようになったからだ。できあがった作品は、他の作家を刺激し新たな映画が生まれる。また映画製作を目指す若者たちも多くなっていく。90年代中期以降、山形国際ドキュメンタリー映画祭にやってくる中国、台湾、韓国などの映画関係者、学生たちが増えていったのだ。
 こうした状況の変化に応える形で香味庵の宿泊施設版が必要とされてきた。招待者はホテルに宿泊できるが、それ以外の外国人の宿泊が問題となっていたのである。97年、山形市の市民の一人が自宅の倉庫を開放してアジアハウスという宿泊施設をオープンする。30人くらいの人たちがザコ寝するようなところだったらしい。その人はたちまち宿泊施設での人々の交流に魅せられ、倉庫を改造しカラオケ機材を手に入れるなど、より積極的に運営していくことになる。このあたり、香味庵の楽しさを考えるととてもよくわかる。しかし家族の方が亡くなったなどの理由で、2005年の第9回を最後にその活動は終了した。
 そして今度の第11回に新たに登場したのが、私が訪れたアジアハウスなのである。


●山形R不動産から始まる

 アジアハウス・プロジェクトは山形市にある東北芸術工科大学の学生や卒業生たちを中心にして行われた。
 出発点は、昨年から大学で教えるようになった馬場正尊准教授が提案した「山形R不動産」というプロジェクトだった。建築家であるとともに、東京R不動産というリノベーションができる物件を紹介する不動産業を仲間と営んできた馬場准教授は、着任早々学生たちに山形市内の空き物件を探すことを呼びかける。探し出した物件を使って、不動産業ではなく、まちなかで暮らすことを提案するプロジェクトとして設定されたのが山形R不動産だ。
 何故、「まちなかで暮らすプロジェクト」なのか? 馬場准教授は、大学のホームページで次のように書いている。
「今、日本じゅうの商店街は空洞化に苦しんでいる。同時に、さまざまな活性化案が考えられているが、どれもなかなかうまくいっていない。それは商業地を、商業の再生で再生しようとしているのに無理があるのではないか? 僕らの提案は、まちなかを『住む』エリアとして捉え直すこと」だと(2)。
 最初に手掛ける物件は山形市本町にある元旅館のビルに決まった。この建物は三沢旅館という名前だったことから「ミサワクラス」と呼ばれる。プロジェクトが始動する直前、馬場准教授は、このスペースにただ学生たちが住むだけでは、まちを活性化する企画としては弱いのではないかと考えだす。そこで同じ大学の美術館大学センター主任学芸員の宮本武典さんに相談することにした。
 宮本さんは東北芸工大の美術館、美術大学センターを拠点に、地域に開いた美術活動を続けてきた人物だ。最近では、山形の湯治場、肘折温泉でのアートイベント「肘折版現代湯治2009」の運営の中心を担っている。絵画や舞踏などの作品が発表されたイベントだが、核になっているのは、開催地にアーティストが出かけていき、そこで作品を作り出していくアーティスト・イン・レジデンスという方法だ。
 宮本さんがミサワクラスからアジアハウスへの流れを説明してくれた。
「馬場さんの相談は、ミサワクラスを一種のアーティスト・イン・レジデンスができるスペースにするために、作品製作を行っている若者を紹介してくれということでした。暮らしながら同時に表現ができる場所ということをより鮮明にしたいということだったのです。そこで僕が漆工芸や映像表現を行なっている卒業生などを紹介、馬場研究室の学生たちと併せて12人の若者たちが、住み込みながら改造していく作業がこの春から始まったのです。その作業の中から映画祭のある10月にこの企画のプレゼンテーションをしようという意見が出てきました。映画祭は世界から人を呼べるクオリティと規模をもっている。デモンストレーションするにはよい機会だと思ったわけです。その時、ちょうどミサワハウスの隣のビルが借りられることがわかったのでした」
 使われなくなったビルを改造し、そこで住むことと表現することを同時に行うことで、山形のまちを活性化する企画。それを多くの人に知らせること、また支援者をみつけることを目的に、隣のビルでの映画祭期間中のプレゼンテーションが考えだされた。そして映画祭事務局との折衝が行われていく中で、外国から来る人々を宿泊させていく施設を作るという話にまとまっていく。これがミサワクラスの隣にあるアジアハウスの成り立ちだ。
 9月から改築が行われ全部で11人が宿泊できる施設とカフェ、スタジオを備えたアジアハウスができあがった(宿泊は一泊1000円の予定だったが旅館法などの関係で最終的に無料となった)。スタジオでは開催期間中、馬場准教授や民俗学者赤坂憲雄さん、アートディレクターの北川フラムさんなども参加する連続レクチャーも行われた。


●カフェというスペースの意味

 宿泊スペースを実際に見てきた。そこはドミトリー(相部屋)になっており、貨物の運搬などで使う木製パレットで組まれたベッドが置かれていた。「移動」という言葉を喚起させるパレットが旅人の寝床になっていること、映画のスクリーンのように人の顔などがコピーされた窓のカーテン(2003年の映画祭で上映された中国のドキュメント作品『鉄西区』<王兵監督>から引用されていた画像だった)、まちの記憶に結びつく、カフェに置かれた閉館された映画館の座席……、こうした表現の仕方は今回のプロジェクトの要となるものだろう。
「僕はこの大学に5年前に来て、地域に開いたアートの試みを続けてきました。その経験を踏まえていうなら、山形の一般の人々はアートへのニーズはそれほどもっていません。これは日本の地方都市の現実だと思うのですが、ではどうするか。ひとつの方法として、まちなかに出ていって、暮らしに必要な機能性もったアートを作る方法があると思います。たとえば家具だけれども作家の表現としてつくられたモノ。今回のベッドや人顔がコピーされたカーテンなどはその一例だと思います」(宮本さん)
 この「機能性と表現の一体化」は、冒頭に述べたアジアハウス全体に感じられる「カフェ文化に培われたスペース感覚」と深く結びついていると思う。90年代隆盛してきた自営系のカフェの特徴は、飲食をサービスするという機能と自己表現が一体化されているということだった。店の経営者の多くは70年代以降、飲食店やその他の施設できめ細かく行われるようになったサービスを子供の頃からあたりまえのように享受してきた人たちだった。そして大人になり自分に身についた非常にきめ細かいサービス行為をサービス産業の末端労働としてではなく、自己表現として行ったのが、自営系カフェの労働だった。
 こうしたカフェのあり方は、機能性と表現の一体化という彼らのテーマとスムーズに結びつくだろう。実際宮本さんは、自分らしいカフェを目指す人たちにとっての手本ともいうべき店、那須のSHOZO CAFEのオーナーとミサワクラスの若者たちを引き合わせてもいる。
 そしてまちに開かれたアートについての話がさらに展開する中で出てきたのが、先述した小川監督の話だったのである。


●アーティスト・イン・レジデンスの視点から小川プロを視る

「まちの暮らしに入っていく機能性と表現の一体化というミサワクラスやアジアハウスの試みは、結果が出るのにとても時間がかかるものです。今まで山形で行ってきた経験から考えたことは、アートと地域の関係を深めるためには時間が必要だということでした。東京と違って山形はゆっくりとした時間が流れています。そのスローな時間に沿っていかなければならない。しかしそれをマイナス要因とせず僕らはプラスとして考えたい。経済状況の影響もあり、ひとつの企画に長いスパンでつき合うのが難しくなってきている時代だからこそ、そのことは大切です。そこで思い出すのが小川さんたちでした。彼らは、この山形に来て、カメラをまわすまでに数年かけているという。その時間をかけているということ、その方法の中に僕たちが学ぶべきものがあると思うのです」
 かつて小川プロは、闘争現場と生活現場を結びつける試みの一つとして、渦中の共同体に入り込む方法をとった。その共同体の要となる農作業を理解するために、農村に移住し共同体の想像力と結びつく形で作品をつくりあげた。この実践が地域に開かれたアート表現、共同体の時間に沿った表現行為として新たに捉え直されているのである。この解釈が小川プロをどうしても先述した60〜70年代的文化の文脈を通して見てしまう自分には新鮮だったのである。
 確かに小川プロが農村に住み込み農作業を自ら行い映画作品を作り上げたように、ミサワクラスの人々はまちに住み、映画祭期間中だけではあるが宿泊施設を営み、そこを使って彼らが考えるアート表現を行った。
 多分アジアハウスの人々は小川プロが強い決意でそうしたのとは違って、いくつかの流れが重なって考え出したアイデアを割合気軽に実行したのだと思う。
 ということもあり、スペースの意味を強く主張してはいない。そこで私は、ドキュメンタリー映画祭の宿泊施設として機能したアジアハウスの意味を、もう少し明確化してみたいと思う。


●アートフェスティバルの旅人が示すもの

 2000年代になってから、各地域で行われているアートフェスティバルが話題になるようになり、観客も多く集まるようになってきた。
 山形のドキュメンタリー映画祭に行ってみても、非常に若い参加者が多いということが印象的だった。関係者に聞くと「95年くらいからボランティアになるために来る人が増え、また最近になって若い人たちが非常に増えていることに驚いている」といっていた。増加の理由を聞くと「91年に開校された東北芸工大の学生の参加とそのネットワークの影響、近年各地の大学で映像系の学科が増え、その教師に過去映画祭に関係した人々がなっており、教え子を送り出しているのではないか」という答えが返ってきた。
 実際、若者たちとも話したりしたが、気になる映画を見にきたというマニア的な人はあまり多くなく、山形という地域に根づいた映画祭を体験しにきたという人たちが多かったようだった。
 今、各地域で行われているアートフェスティバルの観客が増えているとしたら、ある作品をぜひ見たいがためにそこに行くというよりは、地域文化の中に置かれたアート作品を地域の雰囲気とともに楽しみたいという人たちが多くなっているからだろう。また実際の増加数がそれほどの数ではなくとも、メディアでアートフェスティバルが意識的に取り上げられるのは、アートを含む様々なものを地域文化の文脈の中にいったん入れ込んで楽しむという流れが今、目立ってきているからだろう。
 これは資本主義経済の進展がある限界にまで達した社会の成員が、次なる時代の生き方として「コミュニティを大切にする生き方」を強く意識したことと深くつながっている現象だと思う。
 これから私たちはいやおうなくグローバルな状況の中で生きるが故にローカルを意識した暮らしを志向していくだろう。といっても前近代にあった地域に縛りつけられたローカルな暮らしではなく、常にグローバルなネットワークが同時に存在する、あるいは移動の可能性を常にもっているローカルな暮らしだ。
 そのような暮らしを中から、さまざまな物事をコミュニティの文脈で見ていく考えが一般的になり、そこからアートもコミュニティを意識して楽しむために、各地で行われるアートフェスティバルへと出かけていく人たち、旅するアート鑑賞者たちも多く出てくるに違いない。
 私が山形のアジアハウスで見たものは、そのような旅人が使う可能性をもった宿泊施設だった。そのように見えたのは、宮本さんと地域とアートの関係性について話したからだろう。またドキュメンタリー映画祭のための宿泊施設だったということも大きい。ドキュメンタリストは基本的に旅する人たちだ。それも、人や物事をコミュニティの文脈で捉えながら旅をする。その中の小川プロは長い年月をかけてコミュニティに溶け込み、農作業をコミュニティの文脈から捉えていった。
 またカフェ的空間性も、その見方に影響を与えていた。大きな資本を背景にしていない自営系カフェを私が評価しているのは、経済がもう進展しない世界での生き方をバブル崩壊以降、もっとも早くこの日本社会に自然な形で見せてくれたことだった。アジアハウスがカフェ的なスペース感覚をもっているアートフェスティバル用の宿泊施設であったことは、経済発展以降の定常化社会を旅するアート鑑賞者を想像できて、とても共感できたのである。


(1)『三里塚・辺田部落』についての1973年の小川監督の発言(『映画を穫る』(小川紳介著 筑摩書房より)。
(2)「山形R不動産と、小さな旅館の復活」
 http://www.tuad.ac.jp/adm/architecture/topics/011/

カリフォルニア高速鉄道/ブルース・スターリングのキオスク

カリフォルニア高速鉄道/ナチュロック/ハドソン川の奇跡ブルース・スターリングのキオスク

JR九州の列車デザインをしている水戸岡鋭治さんとのトークショーが終ってからも、鉄道のことを考え続けているんだ。


今週の月曜日(2月2日)朝日新聞朝刊に内蔵されていた「GLOBE」(未来の新聞を示唆している装置のようで、非常に興味をもっている)の特集は「鉄道復権」だった。
オバマが米国大統領に選ばれた昨年11月4日、カリフォルニア州住民投票で米国初の「超高速鉄道」の建設が決まったという記事が出ていた。サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴなどを結ぶ時速350キロのアメリカ版新幹線の建設が決まったのだ。
計画を動かした「第一の要因は『環境』だ」という。
その他、アメリカでは高速鉄道の建設候補が11路線もあるという。EUでもクルマ社会に対抗しつつ高速鉄道の建設の動きは活発化。中国、インド、ブラジル、中東でも計画は多くあり、しかし日本の鉄道技術はガラパゴス化して、なかなかうまく受注がとれないと書いてあった。先日、水戸岡さんが控え室で、今、列車メーカーは海外からの注文に忙しく、自分がデザインしているような発注台数が少ない列車は、合間にしか作ってくれないといっていたが、現場と会社幹部の見解はいろいろと違うんだろうな。


アメリカのモノづくり、特にカリフォルニアあたりのそれは理念的なところが強いから、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴを結ぶ高速鉄道は、エコロジーや公共空間性を前面に出すのではないだろうか。水戸岡さんの仕事がもっている天然素材使用や公共性の意義が、カリフォルニアのデザイナーにうまく伝わってほしいな(日本の会社が建設に関わることは決まっていない)。


では、クルマ社会はどうなるかと考えると、最近私が興味をもっているのが「日本ナチュロック」という会社。
http://www.naturock.co.jp/
溶岩を使ったフィルムその他でコンクリートを覆ってしまおうという壮大な計画をもっている会社だ。多孔質な溶岩には苔などの植物が生えやすく、それをコンクリート化した都市に導入すれば緑化が著しく行われるという。このサイトで見れる高速道路の壁面を溶岩で覆い、緑化していくCGは、自分が思っている未来のクルマ社会の姿だ。そして、溶岩カー。溶岩に覆われ緑化された自動車! この写真を見て、この会社はすごいと思いました。はっきりいって少し狂っている野望でもあるのだけれど、溶岩で覆われている都市風景には、私、とても惹かれます。大注目したい会社、日本ナチュロックです。

こうした動きと関連する形で気になることをもうひとつ。バイク便の会社「By-Q」。
http://www.by-q.co.jp/
新サービス「スーパーBy-Q便」を開始するようだ。これは配送方式を、客が従来のバイク便一方式ではなく、バイクや自転車、そしてエコキャリー(公共交通を使った配送)などの中から選ぶというもの。バイク便から公共交通を使った配送へのシフトを狙ったもののようだ。都市の公共交通(特に鉄道)を上手に使っての物流、その光景にもとても魅了されている。
公共交通を使ったモノ運びの話は、この会社の人にぜひ聞いてみたい。


今は特殊交通系の頭になっているので、読む漫画や小説も、そういったものが多い。
漫画でいえば『カブのイサキ』(芦奈野ひとし 講談社)。物語が繰り広げられるのは、地面のサイズが10倍になった世界の三浦半島地域(大楠山は2000メートル級の山脈になっている)。広大な世界で、飛行機はバイクのようなものになっている。タイトルは、飛行機をバイクのカブのように使おうとしている少年イサキから来ている。
作者の芦奈野は、前作『ヨコハマ買い出し紀行』では海面浮上で土地が狭くなった近未来三浦半島での暮らしを描いたが、今作品では、一転して、地面のスケールを10倍にしてしまった! 環境破壊、戦争でのその後の「つつましい暮らし」を描く想像力は現代人が共有するものだ。そのような物語のコミックスや小説は実に多い。それは現代人の原想像力ともいうべきものだけれど、どこか自由でない窮屈さも同時に感じてきた。この作者は、そこを「地面が10倍」という荒唐無稽さで乗り越えてしまった。キャラクターの描き方、コマ割にも、抜けた感じの楽しさが横溢している。あの『ヨコハマ買い出し紀行』の想像力を飛び越えたすがすがしさが感じられる。といっても、「その後の世界」の切なさのトーンは変わらない。切なさは、『ヨコハマ買い出し紀行』では車やバイクが自転車のように使用されているという、20世紀型ヴィークルとしての夢を失った使い方から醸し出されていたが、『カブのイサキ』では飛行機がバイクにように扱われているところからきているのだろう。切なさが深化しているのだ。現在の交通機関に対する感情の急速な変化に基づいた漫画。ああ、おもしろかった!


飛行機といえば、ニューヨークの飛行機事故「ハドソン川の奇跡」。あのサレンバーガー機長に、建築家の石山修武氏が注目しているようだ。それはそうだろう、
私が『ミュージックマガジン』2008年6月号で彼の著作『セルフビルド』(石山修武中里和人 交通新聞社)の書評で書いた通り、あの書物で石山氏は「生還するアポロ13号的技術」を称揚していたのだから。
アポロ13号は、突如故障して宇宙に放り出されたロケット。しかし、宇宙飛行士たちが「宇宙船内にあったガムテープやら身の廻りの用品を使い」修繕し地球に帰還することができた。この本でいうセルフビルドとは、「アポロ13号型技術」を実践し、危機の時代を生き抜くことだ。その立場からすれば、サレンバーガー機長、航空機A320の技術は大注目なのだろう。


先に漫画を紹介したが、小説をひとつ。『SFマガジン』2009年1月号(早川書房)に載ったブルース・スターリングの小説『キオスク』(小川隆訳)。
旧ソ連圏の小国。主人公、ボリスラフはキオスクを経営している。そこには立体をコピーできるファブリカトールという機械があり、彼はそれで儲けていた。ある日、EUの調査団がキオスクの全てを買い上げていく。空っぽになった店内に、入手した新型ファブリカトールを設置するところから始まる物語だ。物流にフォーカスした交通形態の物語として読んだ。ブルース・スターリングらしいコンセプトは面白いが読んでいくうちに、なんだかわからなくなる小説……。しかしキヨスク愛好派には、なんだかずんずん読めますよ。激しい物流と小屋のモノとの関係性が示唆的ですから。

 
さて、ブルース・スターリングが捨てたアメリカ。その未来、時速350キロのアメリカ版新幹線のサンフランシスコ駅のキオスクには、どんな物品が置かれるのだろうか。ホールアースカタログのようなキオスクなのかな!


そうだ、水戸岡鋭治さんとのトークセッションのパート2計画が持ち上がっています。詳細が決まり次第お知らせいたします!


写真は、上からJR九州の列車、ソニック885系ソニック883系の運転席、それから駅構内にあった気になるたこ焼き屋(構造的にもおもしろい駅だったのだけど、駅名を忘れてしまった!)。これは昨年春に取材の際に私が撮影したものです。

水戸岡鋭治さんとのトークショー

1月26日「デザイン列車 翔ける 旅する空間の生み出し方」というタイトルのトークショーを行った。
現在、東京・京橋のINAXギャラリーで行われている展示「デザイン満開 九州列車の旅」に付随するイベントで、JR九州の列車のデザインを手掛けている水戸岡鋭治さんの話を聞く会。私はインタビュアー役である。
水戸岡さんの列車デザインに関する基本的な考えは、同展のパンフレットに書かれているので、今回は写真を見ながら、それぞれの列車のデザインについて具体的に語ってもらうことを主旨とした。


正月早々、昨年の春の取材時に撮影した写真(写真家は雨宮秀也さん)の膨大なストックの中から写真を選びだし、水戸岡さんのデザイン事務所であるドーンデザイン研究所から借りたパース、イラスト、写真などを合わせ、トークショーの構成案を作っていった。


構成案は、講演会の限られた時間、1時間半では足りない内容のものになったが、
話がどこへ流れても対応できる写真や質問の並びができたので、これをよしとした。


コンピュータで映像を見せていくことをトークショーの最中にすることは、話を即興的に展開することが難しくなるが、「水戸岡鋭治の世界」を伝えていくには、実際の列車の写真と水戸岡さんのあの独特な言葉をジャストフィットさせることが大切だと思い、自分で操作することにした。


今回パンフレットでは、肖像権の関係で乗客の顔が出ている写真はほとんど使用されていない(私は編集していないけど、そう思う)。しかし鉄道の旅の楽しさは、乗客の顔が出ればもっと伝わる。そのためにもパンフレットで使えなかった乗客の顔が出ている写真を見てもらいたかった。そこに水戸岡さんの言葉を重ねれば、非常に面白いものができるはず。写真を上手につかったトークショーにしようと思った。


今回は構成者としての意識が強く、こうした意識は、当日会場での出演者としての自分の言葉を貧しくする予感はあったが、今回は水戸岡デザインワールドの最良のプレゼンをしたいという目的があったので、この意識のあり方でよいと決めた。


当日、水戸岡さんとお会いする。会ってすぐに、水戸岡さんの言葉のある部分がまったく自分の頭に入ってこないことに気づく。
会話をしていても、その話を構成案のどこに置き写真と組み合わせていこうかと考えている。これはいかん、構成者としての意識が強すぎると思うのだが、どうにもならない。水戸岡さんの言葉は、「現代の企業の常識的な仕事の仕方を覆す力」があるのだが、そういった話に自分が反応しないのだ。こうした話は受けることはわかっていたし、自分も大好きな話なのだが、これにインタビュアーである自分が応対してしまえば、話は全体として抽象的になるか人生論になってしまい、結果的につまらないものになってしまう、それに1時間半の時間はそれですぐに終ってしまうだろう。水戸岡さんのこうした「覆す言葉」は観客の方々の心にまっすぐ伝わっていけばいいのであって、自分の中に入ってこなくてもいいと思う。言葉の絶妙なキャッチボールを見せられれば、それは素晴らしいことなのだが、windows系のソフトで映像を見せながら話していくことにまだ慣れていないこと、水戸岡さんの重量級の言葉を受けとめながらのトークショー構成はあまりに難しいことの理由によって、それはできないだろうと、開演10分前に判断した。


構成案の大まかな流れは、以下の通り。
01JR九州の仕事を始めたころの話
02ゆふいんの森
(列車内の遊歩について、女性客室乗務員のサービスと制服デザインの関係について)
03つばめ
(特徴的な外観デザイン、自然木を使う理由、従来の新幹線について)
04リレーつばめ
(図版を見ながら、スケッチから設計の流れについての解説、モケットの豊富な柄について、そこから水戸岡デザインに現れる「まだら問題」<自然のランダムパターンについての自分の意見をいうこと>、照明について、航空機のような荷物棚について)
05あそ1962
(自転車を乗せるアイデア、ノスタルジー問題)
06九州横断特急
(列車の名前、その表示の仕方について、車窓の光景とデザインの関連性)
07いさぶろう・しんぺい号
(鉄道遺産を見せる仕方、古い駅をどのように残すか)
08ソニック885系
(斬新な空間コモンスペースについて、総革張りの椅子について)
09はやとの風
(外観と内装のギャップの演出、駅のリニューアルについて)
10なのはなDX
(風土と列車デザインの関係性、時代に取り残された観光地の活性化問題)
11ソニック883系
(未来的な空間デザイン、ミッキーマウスの耳のようなヘッドレスト、運転席の見せ方、JR九州の列車総体のデザインと個別デザインについて)
12これからの仕事の話


実際には、01〜04で大半の時間を使い果たし、そのため08に飛び、次に11へ行き06の列車の名前と表示問題でいったん終わり、観客の方々の質問をお聞きし、そして12で終了となった。(05、06、07、08の半分、09、10は紹介できなかった)


洗練された列車デザインを多く見せる形になり、ある種泥臭いものが紹介できなかったのは残念だったが、水戸岡デザインワールドの重要なところは触れることができたと思う。


会場の観客の方々の熱気はすごかった。気になるデザイナーの話を聞きにきて、その場で水戸岡ファンになっていく、その様子が壇上からもわかるような会だった。こうしたカルチャー系講演会で、この熱さは特記すべきことではないだろうか。
(80年代の自動車雑誌『NAVI』のような鉄道雑誌が、今、必要とされているのかもしれない)

来て下さった方々、どうもありがとうございました。


打ち上げとして近くの韓国料理店へ。INAXギャラリースタッフの方々とパンフレットスタッフ、水戸岡さん、名古屋での講演会に出演した源石さん、お誘いした写真家/文筆家の瀬戸山さんらと歓談。


大井町で瀬戸山さんと少しだけ飲み、歩いて大森の自宅へ。
実は水戸岡さんと控え室で話をしていて、自分のある資質に気づくことがあった。そのことについてくどくどと考えながら夜道を歩いた。
家で鈴木慶一の「自動販売機の中のオフィーリア」を聞く。
彼の唄には、雪の日の壮烈な鬱状態が隠されている気がする。虫歯を舌で触るような仕方で、ヘッドフォンで聞いた。それから夜遅く眠った。

2008年歳末のメモ

築地で歳末恒例のおせち料理売りの仕事をしてきた。兄と一緒にした。兄は犬が歩いてくれば可愛い可愛いといい、イカアラレが美味しいと感じたら、一日に何度もイカアラレの話をしている明るい人なので楽しかった。そしてすご〜く愛情深いところが垣間みれる。おじさんだけど天使のような人だ。
幻視者、伊東忠太が設計した西本願寺のあの建物に見守られながら、バカ兄弟が一緒に楽し気に働いた数日だった。


築地歳末定点観測として報告をするなら、今年はここ数年の中でかなり人が来ている年ではないか。(これは築地全体というより、自分が見れるストリートに関してだけど)多分、ストリート全体として、不況にも左右されなく売り上げも悪くない年なのではないかと思う。
どうしてだろう? 経済的配慮から海外旅行を控えて家族で家で楽しむ傾向に……違う、私は人の顔や動きをしっかり見るのが大好きなのだが、その私の観測からいうと今年は群衆のジェネレーションががらりと変わった。
築地歳末ストリートでの私の興味の対象だった戦前の臭いのするお年寄りの姿が少なくなっている(その世代の方々の身体がそうとうしんどいものになったのだと思う)。その変わり若いカップルが多くなった(90年代中期から約10年の間に生じたカフェ文化、リノベーション文化の影響か)。
ジェネレーションの様変わりが、新たな動員力の要因となっているのでは。
そして群衆から醸し出されている雰囲気がほのぼのとしている。
新聞やテレビがいっている世相とはまったく印象が違うのだけど、これは観察者である自分の心持ちがそうだからか。いや、数日前、とても大切な友人が亡くなって葬儀に出て、その遺体を見てきた自分だ。こころは打ちひしがれている。そんな目にも肌にも感じられる、あるほのかな輝きがそこにはあった。
このほのかな明るさは何なのだろう。不況不況といわれて作られた世界認識のために、あたりまえの幸福が輝きとして見えるのか。いや、それも違う。生活困窮の底には計り知れない構造があるということか……。


今年は、家を失った友人の生活状況を打開するための一助として、約4ヶ月間の共同生活を行った。決して上手に生活が行われたわけではないが、経済的困窮にあえぐ者には、家や仕事をシェアーすることにしか希望はないと確信している。
本年、私は文章を書く仕事を核にして、新たな映像系の仕事などを含めて様々な仕事を行った。これは才能のマルチな展開などではなくワークシェアリングの方向性の生き方だと自分では認識している。そこでお世話になった各分野の方々に感謝の言葉を送りたい。ありがとうございました、また来年も面白く労働しましょう。


こうした思いとともに、2008年歳末の築地での群衆が醸し出すほのぼのとした光を、私はここにメモしておきたい。

米 空 結婚式

米 空 結婚式


夕方、米を研ごうとしたその時に、今、そこにある白い米が、どこか遠くの国の婚礼の空では大きく撒かれるのだと思ってしまうその時、今ここでないもののパレードに囲まれて、夕暮れの台所がやにわに賑やかになる。
しかしふと疑問がわく。そういえば少年時代に見たテレビで、西洋の結婚式で米を撒く映像を見たことが度々あった。しかし最近は見ないな、テレビを見ないからそうなのか、彼の国の式典では米が青空に撒かれるのだと思っていたが、それはほんとうなのだろうかという気になって、電気炊飯器にスイッチを入れてから一匹の疑心暗鬼となってコンピュータの前に坐る。


鬼どころか検索馬鹿になってしまっているので、「米 空 結婚式」という言葉を打ち込み検索エンジン動かしてみると「米軍 アフガンで結婚式場を誤爆」という記事が浮かびあがってきた。
先月の11月3日、タリバン武装勢力から攻撃を受けた米軍が空爆を行った際、現場近くの結婚式場を誤って破壊してしまったのだという。37人の死者。
「米 空 結婚式」は、大空襲となって、自分の身に降る。誤爆である。


1時間気分が沈鬱になり、ちょうどごはんが炊かれた。夕食となる。
納豆の醤油入りのビニール袋を指でちぎる。と指が醤油で汚れる。その度に思い出すことがある。ある食品会社のPR誌のコラムで、女性詩人が書いていた文章。調理用のハサミについての文章である。最近手に入れたハサミはとても便利だという、ちょっと得意気な言葉。特に納豆の醤油入りの袋をそのハサミで切った時に威力が発揮される。指先が汚れない! うれしくなって女性詩人は、ハサミをちょきちょきと鳴らす。うれしさあまって空中まで切っていく。さすが女性詩人である。その姿の描写がうまい。うますぎる言葉なので覚えられず、姿だけが頭に残った。もう十年以上前に読んだコラムだが、以来、件のビニール袋を指でちぎる度に、ちょきちょきちょきの女詩人を思い出す。
詩人は独身か。ハサミで切られていく。大空だ。気が晴れた。

シュヴァンクマイエル/個室ビデオ集落/九州列車の旅

来月の11月6日から、西荻のギャラリーMADOというところで展示会をする。「錬金術の招待状」というもの。私はここで、ヤン・シュヴァンクマイエル関連の物品、たとえば、彼が作った蔵書票、ポストカード、それからシュヴァンクマイエルものとは別に「成金男の愛した扇」といった紙幣でつくった扇などを売ります。そこには、非常に文学的教養のある美青年が行うカフェも併設される。
よくわからないだろうが、来て下さい(今度、ちゃんと説明します)。私が店番する日にちなどがわかったらお知らせしますから。
http://www.giovanni.jp/event/information.htm


個室ビデオの店が放火され、多くの死者が出た。この集落についてはとても興味をもっていた。今のような部屋の形になる前、歓楽街のビルの中で、ベニヤで作られた小さな小屋が並ぶ集落に遭遇した時の衝撃は忘れることができない。
1980年代は、世界にいるということそれ自体が恐ろしかったので、逃避場所として、この集落に入っていった。この集落に関しては文章を書いていて、ブログでも発表しようと思ったが、ネットの浮遊力があわないので、他人には読んでもらっていない。どこかの紙媒体で書ければいいと思う。


前にも書いたが「デザイン満開 九州列車の旅」という、とても個性的なJR九州の列車に関する展覧会が、INAXギャラリー名古屋で開催されている。
http://www.inax.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_001263.html
そのパンフレット(AD 祖父江慎)で文章を書いている。
展覧会と同じタイトルのパンフレットが書店でも売っているので、手にとってみて下さい。まさに九州を横断していく「九州横断特急」について書いた文章(河と列車を交互に描写することは前からしたかったことだが、それができた)や、九州最南端の鹿児島中央駅から指宿を走る指宿枕崎線「なのはなDX」という列車について書いた文章(昭和30年代の新婚旅行について書けたのがよかった)は、自分でも気に入っている。立ち読みでもいいですから、そのテクスト読んでみて下さい。

古書ほうろうの宮地さんにパンフレットを送ったら、感想を書いていただいた。ありがとうございます。
http://d.hatena.ne.jp/koshohoro/20080929/p2


(写真は、夏に行ったbeach hut tourの帰りに寄った大阪の鶴橋。焼き肉を食べようと思って犬のように街をうろついたら、犬が)

枝川公一/テレビ/喰始

ブログを一月以上も書かなかった。その間はいろいろなことをした。9月11日は、神保町の東京堂書店倉本四郎をめぐるトークショーを行った。松山巌さんや枝川公一さんと司会者として話をした。松山さんとは何度かお会いし、そのキャラクターに魅了されてきたが、久しぶりにお会いした枝川さんの存在にはまいった。人が少しだけ老境の域に入ってきた時に起こる、体のゆるみ、言葉の浮力の変化、ユーモラスな空気感が、すべてよいように効果をあげて、今の枝川公一さんをとても魅力的な人としている。編集者は、今の枝川公一さんに実際に会うべきだと思います。とても豊かな世界が体験できるはず。また、これからの枝川さんの中で、蓄積された都市体験が、どう発酵されてくるのか、とてもとても楽しみだ。

さて私のことだが、最近はテレビのバラエティ番組の構成者の仕事をしだした。台本を書くばかりだけでなく、台本が書けない構成作家の役や、女性タレントにパシリとして使われる構成作家の役で、テレビに登場している。
なんでこんなことを突然しだしたのか? いわない。ちょっと考えていることがあるんだ。
10月4日、友人であるアートディレクターの大久保裕文さんらが主催した高平哲郎さんのトークショーが古書ほうろうであった。高平さんは、雑誌『ワンダーランド』発行の頃のことを語った。客として高平さんの友人が多くこられていた。その中にワハハ本舗喰始さんがおられた。最近、構成台本を書いて、テレビに出ている(みなさん、CSの片隅ですからね)と話したら、喰さんは「テレビの構成作家は、企画会議に出てアイデアを出し、ぜったい台本を書かないで、その代わりに出演するのが一番」といっておられた。確かにそういうものだろう。その線でいこうか。
喰始さんには初めて会った。ロバート・クラムのコミックの登場人物のようだった。ああいうラインが現実として人体や服装になっているのが不思議だ。いっぺんで魅了されてしまった。そしてとても文化的で、やさしい雰囲気があって、好きになってしまった。ワハハ本舗、今度、見に行こう!