想像界三密経
(序文)
2020年4月7日、新型コロナウイルス感染拡大に対応して
「緊急事態宣言」が日本国政府により発令された。
それに伴って、国民には仕事や買い物などでの人との交流を控え、なるべく家にいるようにする「自粛」が要請された。実施する期間は4月7日から5月6日だった。
私もその要請に応じ、一ヶ月の自粛を行った。
そこで自分は何をしていたのかといえば、お経を書いていたのである。
洞窟に籠り悟りを得ようと瞑想する行者のように、家に籠りひたすらある問題を考えていた。
その問題とは「三密」である。
日本政府は、コロナウイルス感染拡大を防ぐための要請の中心に、次のような言葉を置いた。
「不要不急の外出及び『三つの密』が重なる状況を避けるようにし、自己への感染を回避するとともに、他人に感染させないよう徹底しよう」
「三つの密」とは、①密閉空間=換気の悪い密閉空間、②密集場所=多くの人が密集する場所、③密接場面=互いに手を伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる場面、である。
これがメデイアによって「三密」と呼ばれるようになった。こうして、コロナ禍の日本で、「三密」は近寄ってはならない、作り上げてはならない「三つのタブー」となったのである。
自粛期の初め、私はすぐに思った。
「三密がタブー? 自分が全否定されたようだ。なぜなら、この三つの状態こそ、人生の中で、私が何度も実現しようと挑戦してきたものだから」
過去に何度もその成就に挑戦した三密。自分がその実現を熱望した三密とはどんな状態のことなのかを真剣に考え続けた。それは、自分という人間がなんのために生まれてきたのかを考えることでもあった。
沐浴し、部屋に籠りホワイトセージの葉を焚き、一ヶ月ひたすら考え続けた。
そして完成したのが「想像界三密経」である。
と言うのは、真っ赤な嘘で、直接人と会うことは自粛したが、行者の生活というには程遠い暮らしぶりだった。日中は暮らしの糧を得るためのリモートワーク、夕方からは酒を呑み、夜になるとUPLINKの「3ヶ月60本見放題2980円」パックから選び出した映画を見続けた。そして、深夜、コンピュータに向かい、三密について考えながら文字を打った。
考えついた三つの定義のテクストを、敬愛する人物に三日に一度のペースで送り、アドバイスを受け、書き直し、自粛期が終わる5月6日についに大方書き上げた。
それが、この「想像界三密経」である。
「自分の人生が深く関わる三つの状態の場を考え続けた」と言うのは、冗談ではない。
若い頃は下北沢のマンションの一室を自由ラジオ局に転用し、一緒になった女性と住んだアパートをコミューン状態にしたりした。近年は自宅を学校にし、家開きも行った。
また、私はこれまでに「戦後の転用住宅」「海辺の仮設建築」についての本を作ってきたが、このテクストもそれらに連なるものである。どうしても空間をベースに考えてしまうのだ。
この三つの状態の場を実際に作ろうとした時に、その概念を自分で口ずさめる短い言葉にしておこうと思った。すると、このようなお経の形になってしまった。
しかし、私は仏教徒ではない。この自粛期、毎日曜接していたのは、カトリック教会の配信するオンライン・ミサである。
何にしても「想像界三密経」は出来上がった。
(具体的なテクストの成立過程は、後で記す)
自分のための経典ではあるが、僭越ながら、この自粛によって、そして期間延長(5月末までになった)によって苦境に立たされている商店主の皆様に捧げたい。
この「三密経」に書かれたものは、商店の理想的な状態でもあるからだ。商店主とは、小さな城の主人である。皆それぞれ一家言ある方たちばかりだろう。このような言葉に納得がいかない方も多いはず。自粛が解け、唾を飛ばしあって議論できる日を待ち望んでいる。
「想像界三密経」。
これが緊急事態宣言下の一ヶ月、考え続けた私の思考の成果である。
想像界三密経
密閉
なぜ、密閉するのか。
あえて門戸を閉ざすのは、
集まりの目的を明らかにできるから。
扉を開けて入ったそこにいる人たちからの、
内側の空間そのものからのメッセージ。
集まりが終わる時、自分が何を得て退出していくのか、イメージできるからだ。
集まりの適正規模保持のためにも、閉じることは必要だ。
ファシリテーションを専門とするある人はこう言う。
「集まりの規模には、目安になるマジックナンバーがある。わたしの場合は、六人、十二人から十五人、三〇人、一五〇人だ」
集まりを主催する主人は、
自分なりのマジックナンバーを持っている。
集まりごとに、それに応じた空間の大きさと閉じ方を主人は考慮する。
そう、密閉した場には主人が必ずいる。
招待する者によって閉じられる場は、招待をする者の精神の居場所であるからだ。
密接
密接には「隣る(となる)人」が不可欠だ。
人には、時に、隣に寝る人、隣に座る人、隣にもたれかかれる人、隣でご飯を食べる人、隣で歌う人が必要だ。
その人を「隣る人」という。
そして密接は、その切実さによって、
三密の中では一つだけ、空間を超えることができる。
密集
居心地のよい密集というものがある。
例えば、人が多く集まっている小さなバーにある心地よさ。
なぜ快いのか。
密集を通して均衡が見出されているから。
均衡という調和。
しかし、その快さは数量的な限界をもつ。
ある場の人数が、均衡のマジックナンバーを超えた時、
鋭敏に感じとり、退出することができる人を含む密集には、
調和があり、そして真に快楽的だ。
(イラストは、河原崎秀之さんです)
(後記)
2020年4月上旬、自粛期間に入り、三密について断片的に考え出したが、どこから考えをまとめていいのか、まったく見当がつかなかった。そこで、三密に対する考え方の構えが近い考え方を探した。
思い出したのが、山本哲士さんの『ホスピタリティ原論』(文化科学高等研究院出版局)だった。
先に書いた夕方からの飲酒の大半は、焼酎の「いいちこ」であった。私はこの酒の味もあのヘンテコリンなポスターも好きで、はたまたその酒造メーカーが金を出している学術誌「iichiko」も好みだった。その編集長が哲学者の山本さんである。
この人の魅力は、一人でものすごい集中力を使って考えた論考を発表するのだが、それだけでなくその考えを、人と人が交流する場の展開に応用しようとするところだ。具体的には、山本さん一人の哲学的考えを、何人もの書き手が集う雑誌編集にうまく使っている。「iichiko」も特集テーマは非常に難しいのだけれど、どこか風通しのいい雑誌になっているのは、山本さんのこの基本的姿勢が反映されているからだろう。
山本さんのホスピタリティ論には、人と人が集まる場所の論理が明快に書かれていた。ある場所で行われる生業の論理について山本さんが書いていたことを思い出したのだ。内容というよりは、場への向かい方、思考の構えが、三密論に使えると思った。
『ホスピタリティ原論』には、ホスピタリティを定義する20の短い文章が並んでいた。その中から三密と関係しそうなものを抽出し、三つの密に関する文章に使っていった。ホスピタリティの定義を発語のための踏み台にしたのである。
踏み台であるので、ある程度こちらの論理が立ち上がり出すと、最初のテクストをどんどん変更していった。山本さんの言葉が消えていった。しかし踏み台の一部がそのまま残っているところもある。例えば「主人」という言葉。山本さんにとって主人は、そのホスピタリティ論の重要なキーワードだ。場に拠って立つ人間の在り方に思いを込めている。この言葉は、三密の中の「密閉」にとっても重要なものだった。「主人」という言葉は最後まで残ってしまった。
最初のテクストは随分変更したと書いたが、自分で考えてそうしただけでなく、先の序文に書いた「敬愛する人物」のアドバイスに従って行った。その人が置塩文さんである。テープ起こしを生業としている人で、私が主催している「かえるの学校」の「オーラル・ストーリー文章教室」で取材対象者になっていただいた。
置塩さんに接して最初に感じたのは、彼女の生き方の面白さだった。理路整然の姿勢が日常的に貫かれていること、それが学問ではなく日常生活で、かなり徹底的に展開していくことの面白さだった。論理的な知識人には会ったことがあるが、これだけ論理的な日常生活者に出会ったことはなかった。
置塩さんには、2019年に「テープ起こしワークショップ」を学校で受け持っていただいた。そこに集まった受講生の魅力も含めて実に面白いワークショップであった。2020年6月から第二回ワークショップを開こうと準備していたが、このコロナ騒動である、6月開講はもう無理で、その後の予定も立たない状態だ。しかしSLACKを使った連絡だけはしていて、その流れの中に「三密経」も入れ込んだ。彼女はこの問題にそれほど興味はなかったと思うのだが、「来たものにはすぐに対応する、しかも理路整然に」といういつもの日常スタイルで、全く拒みもせず原稿を読み的確なアドバイスをしてくれた。
このアドバイスはまさに正鵠を射るそのもので、気持ちよく私は原稿を変えていった。
「密接」に関する文章へのアドバイスには、その日、置塩さんが見たテレビの話が書かれていた。それは中川翔子さんがいじめ体験を語るというものだったらしい。
「そこに『隣(とな)る人』という言葉が出てきました。これは『密接』のところで使えると思う」と置塩さんが書いてきたのである。
「隣る人」という児童養護施設をテーマにしたドキュメンタリー映画(刀川和也監督)があって(私はまだ見ていない)、中川さんはこの言葉を使いながら、いじめられ孤立した人の救いの道を語ったのだと思う。
置塩さんが書いてきたこの話は、本当にストンと腑に落ちて納得した。ということで、この「密接」の項は、ほとんど置塩さんの言葉そのままである。
それから「密閉」のところで、ファシリテーターの言葉が出てくる。これはプリヤ・パーカーさんという人の言葉だ。彼女の仕事の中心は紛争分野の解決だ。それこそパレスチナ問題などでの対話をコーデイネートしている。
彼女はインド人の母親とアメリカ人の父親の間で生まれた。両親は彼女がまだ小さい頃に離婚、その間でどう生きるのか、それもかなり価値観の違う男女の間を行き来するなかで考えたことが、この仕事に繋がっているらしい。
彼女が書いた『最高の集い方』(プレジデント社)という本を昨年たまたま書店で見つけた。仲間が集まるパーティから企業の会議まで、人の集まりをどうコーディネートすればいいのかが書かれたものである。この本には強く影響された。今回の「三密経」もその影響は大きい。「なぜ、門戸を閉じるのか」といったところは、パーカーさんの考えがストレートに出ている。
彼女はニューヨークの人だ。コロナの感染者、死亡者がとても多いこの都市で、人の集まりを今どのようにプロデュースしているのか、いや、生きているのだろうか。心配になってツイッターで調べたら、元気に活動しているようで安心した。
「密集」に関するイメージは、新宿のゴールデン街だろうか。私の通勤路の一部がゴールデン街を横に見て通る道になっている。私自身はここ数年、この界隈の店には入っていない。近年はヨーロッパの観光客が多く訪れ独特なムードの飲屋街になっていた。あのイタリアやフランスの人々はどうしているのだろう。元気にやっていればいいが。彼・彼女たちは、ここに並ぶあまりにも小さなバーの「密集」をとても不思議に感じ魅了されているようだった。
それから「想像界三密経」というタイトルだが、「三密」という言葉は、仏教の言葉にそれがあり(この意味は難しくてわからないので説明は省略する)、では「経」をつけようという単なる思いつきでつけた。お経だったら「@@界」という言葉を頭に持ってこようということで、「想像界」をつけた。精神分析のラカンがよく使う言葉である。これは最近はまっているオンライン・ミサ参加のきっかけが、ラカンの研究者でクリスチャンである小笠原晋也さんのツイートだったということでつけたというわけのわからない理由だ。多分、オンライン・ミサは自分の人生に、これから大きな影響を与えると思う。そのきっかけを作った小笠原さんの名をメモしておこうという感じだ。「想像界」の意味はこれも難しくてわからない。説明は省略させて下さい。
とまあ、こんな調子で、原稿を書いていった。上記に登場していただいた方々には、本当に感謝しています。ありがとうございました。
「想像界三密経」は、自粛期第一期が終わる5月6日に大方書き終わり、第二期が始まる頃に序文と後記を書いた。
自粛は続く、これからも粛々と考え続けていくつもりだ。
渡邉裕之
2020年5月上旬