関係の悪循環

昨日、広尾の中央図書館に行くために乗った東横線で、レゲエの帽子にジャージの痩せた女の子と、同じような帽子にもうすでにおばあさんのような風格をもった10代の子の二人組がいた。ずっと二人は話していたのだが、実は楽しそうではない。
痩せた女の子はものすごく怒りっぽい子なのだ。今の自分の境遇が嫌なのだと思う。おばあさんの風格をもった女の子は、何も自分を動かさないのと同時に何に対しても自分が動かせないことを知っているみたいだ。

二人の子はそれぞれ魅力的なのに、二人でいるとつまらなそうだった。

関係の悪循環。

このような関係から、なかなか人は抜けだせないことを私はよく知っている。
スペースはそこにいる人々の関係を規定していくけれど、スペースがある関係に陥った人々を救うことができないこともよく知っている。

音楽史、ユースカルチャーの歴史、あるスペースの歴史というけれど、その歴史の束はこのようなしょうもない人間の関係の悪循環からできていることを忘れてはならない。ロックコンサートの会場や、暴走族の集会にある熱狂は1%で、残り99%は、このような関係の悪循環の退屈や鬱屈がとりまいているはず。

10月の東横線の中で、私は海の家のことを考えた。

海の家から見える1980年代、1990年代のユースカルチャー。その輝きと多くの関係の悪循環。