指宿のタクシー運転手の話

今年(2018年)の12月、編集者の住友和子さんが亡くなった。
ライターとして随分お世話になった方だ。

ミュージシャンズミュージシャンという言葉があるが、住友さんはエディターズエディターと呼ばれるような編集者だった。あのINAXブックレット・シリーズをずっと手がけてきた人だと言えば、本好きなら納得してくれると思う。

年も押し迫って、住友さんを偲んで久しぶりにブログに自分の文章をアップする。
INAXブックレット・シリーズの「九州列車の旅」という本に書いたものだ(2008年9月15日発行)。JR九州の列車デザイナー、水戸岡鋭治さんが手がけた列車をテーマにした本である。
そこに書いた「なのはなDX」という列車をモチーフにした文章だが、主に私が書いているのは指宿で乗ったタクシー運転手の話だ。
紀行文でタクシー運転手ものというは定番だ。その定番をスタジオミュージシャンが、さらっと演奏してみたといった感じの文章だ。
これが並み居るタクシー運転手もので、どれだけ光っているのかはわからない。チョイスしたのは、車の中の住友和子さんの話し声や仕草が、私にとっては感じられるテクストだからだろう。様々な取材先に向かう車、私たちはよく同乗していたのだ。

では、皆さん、この文章をお楽しみ下さい。(2018年12月29日)


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 特別快速「なのはなDX」の車体の色は、鮮やかなイエロー。南国の土地らしく、日本のどの地域よりも早く、1月には花開く菜の花の色だ。列車の終着駅指宿(いぶすき)で拾ったタクシーの運転手の話がおかしかった。

 指宿は、昭和30〜40年代、宮崎とともに新婚旅行のメッカだった。70代のその人は若い頃、新婚さん専門の運転手をしていたという。鹿児島空港の出迎えから始まり、観光案内をしながら3泊4日の旅を、一組の新婚さんにつきっきりで面倒をみるのだ。そのメインイベントが開聞岳かいもんだけ)の植樹式。結婚の記念に、椰子の木や楠の苗を二人で植えるというのだ。

 これが話の前段で、その楠を切り倒しに来た中年女性の話が始まる。離婚をしたが新しい人生を歩むためには、この木を切る必要があると強く迫る女性。その勢いに負け、汗をかきかきノコギリで大木となっていた楠を切り倒そうとする運転手。こうした様子をなんとものんびりとした調子で語るのだ。指宿の街角には椰子や檳榔(びろう)の並木、鮮やかなブーゲンビリアやハイビスカスが咲き誇る。そのような景色を見ながら笑い話に興じていると、本当にゆったりとした気持ちになるのだった。

 南国の観光地を目指し、「なのはなDX」は鹿児島中央駅から出発。南鹿児島駅から市電と並走、しばらくすると錦江湾(きんこうわん)が左手に見えてきた。光降り注ぐ海に沿って走っていく。まばゆい光を受けてきらめく海は、次第に青みを増した。南の海だ。
 陽の光に照らされた車内は、明るい色の木の床、木製座席に多色使いのモケット。展望コーナーには、窓に向かったカウターにベンチ。
 窓の向こうが、亜熱帯原産の樹木が並ぶ風景に変わってきた。大きな葉を揺らして何本も現れ、濃い緑の葉に触れるようにして、イエローの「なのはなDX」が走り抜けていく。真夏の日であったなら、原色の世界の鉄道の旅だ。

 やがて列車は指宿に辿り着く。駅に降りて切符を渡す時に気づいたのだが、駅員はみなアロハ姿だった。なんともくつろげる雰囲気ではないか。改札口のところでふっと気がゆるんだ。その駅前で、私たちは件(くだん)のタクシーに乗り込むことになる。

「声」の書評家----------- 倉本四郎

「新潮」2010年5月号で発表した書評家・倉本四郎についての原稿をUPします。
私は、『ポスト・ブックレヴューの時代 倉本四郎』上・下巻(右文書院)という本を編纂しています。
倉本四郎の書評を集めたものです。その下巻を出した際に書いたものです。




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「声」の書評家---- 倉本四郎


 書物を巡る無数の声が、そのテクストには響き渡っていた。倉本四郎の書評の特徴を一言でいうならこのようになる。2003年、59歳で亡くなってから倉本の仕事は急速に忘れられようとしている。そのため、この書評家のことをまったく知らない読者も多いだろう。書評の魅力を語っていく前に、簡単に倉本のことを紹介したい。


 倉本は約20冊の著作を遺している。その仕事を大きく分けると3つになる。一つは敬愛してきた澁澤龍彦の系譜に連なる絵画などの視覚的な対象を使って幻想的博物学を語る著作。『鬼の宇宙誌』、『フローラの肖像』などがそれにあたる。次が小説。彼は『海の火』という恋愛小説を、晩年には『往生日和』、『招待』など老境をテーマにした作品を書いていた(藤枝静男へのあこがれを倉本はもっていた)。そして三番目が中心的仕事となる書評だ。書評集には『出現する書物』や、私が編纂した『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集』上・下巻などがあるのだが、実はその書評群のほんの一部だけが著作になっているに過ぎない。というのも倉本は「週刊ポスト」で1976年から97年までの間、毎週書評を書き続けてきたのであり、その膨大なテクストすべてを書物にすることはほとんど不可能なのである。


 ということもあり、ここではそのすべてに目を通してきた私が、倉本四郎が作り上げた特異な書評空間を再現してみせようと思う。

◆テクストが多数の人々に読まれ、語られる。その幸福


 21年間もの長い時間をかけて倉本が「週刊ポスト」で書き続けてきた書評「ポスト・ブックレビュー」。そのテクストの多くは、書物を紹介する地の文とインタビューが交互に置かれる形で構成されていた。
 インタビューに登場するのは、その著者の場合もあるが、テーマに関心のある者、研究者も登場、時には一冊の本について複数の人間が並ぶこともある。


 どんな人物が登場しているのか紹介しよう。

 著者では、立原正秋(『たびびと』)、色川武大(『怪しい来客簿』)、島尾敏雄(『死の棘』)、藤沢周平(『春秋山伏記』)、高田宏(『われ山に帰る』)、松山巌(『闇の中の石』)等々。


 テーマ関連では、『息子と私とオートバイ』(R・M・パーシグ)という60年代米国の文化変革を背景にしたバイク旅行の本では、彼の国の文化事情に精通している枝川公一、架空植物へのユーモア溢れる命名がポイントになる本『平行植物』(レオ・レオーニ)では、ハナモゲラ語で売り出していたタモリなどが登場。
 

 複数パターンは、植草甚一の『いい映画を見に行こう』に対して紀田順一郎久保田二郎種村季弘が順に出てきては、当時(70年代中期)突然起こったJ・J氏ブームの理由をそれぞれの言葉で語っていた。
 

 こうした人物たちが語りだすインタビューが、本を紹介する地の文とモンタージュされるのである。例をお見せしよう。『五味康祐代表作集1』についての書評である。


  五味の『寛永の剣士』に於ける剣豪同士の決闘場面から、それは始まる。
「彼は六左衛門が刀の柄に手を掛け、猫背から窺いつつ進むのを見て叫ぶ。『お手前の鞘の勝ちじゃ』/六左エ門の気が、瞬間にゆるむ。これも人性の『微妙』である。ゆるみは『微妙』に対してタカをくくることだといってもよい。武蔵はそこで踊り込んで首をはねる」


 こうした作品から抜き出された一場面の「描写」の後に、インタビューが挿入される。語るのは文芸評論家の秋山駿。
「――あなたは殆ど熱烈な五味康祐の読み手とききましたが。
秋山 昭和31年の『柳生武芸帳』以来だね。それまでも時代小説のファンだったが、あれは何か特別な経験だった。『週刊新潮』に連載されていたのだが、毎週買った。読み捨てにできずに家に持ち帰って読み返す。仲間が七、八人いたが全員そうでね、それも回し読みせず、面々が買って読むんだよ。
―――随分な執着ですね。
秋山 喫茶店に集まっても話題はそれさ。十兵衛と霞の多三郎はどっちが強いか論じ合うわけよ。あれは『柳馬場』の章で立ち合うことになるわけだけど、相打ちでね、どちらが勝ったのかは分からないわけ。その分からないところが深みとみえてね、吉川英治の本を初め武芸に関する専門書まで読み漁ったよ」


 ひとつのテクストが印刷され多数の人々に読まれ、様々な言葉で語られること。その幸福を語る秋山の声。インタビューの相手として選ばれたのは、文芸評論家であり名うての時代小説の読み手であるという理由によってだろうが、ここで登場する秋山は多くの人が集う場所でたまたま取材された者のようだ。まるでテレビの街頭インタビューの雰囲気だ。


 この雰囲気は「喫茶店に集まっても話題はそれさ」という言葉があることで醸し出されているとともに、もうひとつ「ポスト・ブックレビュー」が書物についてコメントする者を、複数印刷された書物を取り囲む複数の読者の一人として、捉えているところからきている。その認識があるからこそ「読み捨てにできずに家に持ち帰って読み返す。仲間が七、八人いたが全員そうでね」や「十兵衛と霞の多三郎はどっちが強いか論じ合うわけよ」という言葉が、なんともいえぬ幸福感に包まれるのだ。


 倉本の書評の中に登場する者たちは権威をもった者として扱われない。著者以外の者はそれが研究者だったとしても無数の読者の一人として登場し、自分が出会った一冊の書物について楽し気に語りだすのだ。書物をダシに自分の経験を語る者が多い。中には読んでもいないのに調子よく語りだす者さえいる。そんな楽し気な声に比して著者たちの声は少しばかりの陰翳をもつ。書物を前に自由な読みを行う読者に対して、こちらはオリジナルの原稿を一束書き上げなければならなかった必然性を語るのだが、それは苦しく、時に滑稽な声として書かれている。こうして書物を巡る無数の声が響き渡っているのが「ポスト・ブックレビュー」の特徴だ。



◆週刊誌独自の方法論で書かれた書評


「ポスト・ブックレビュー」は「週刊ポスト」の1976年5月7日号から開始され、1997年9月5日号で終了したロングラン連載書評である。
 取り上げた本は約千冊。小説からルポルタージュ、詩集、批評集、学術書、写真集、辞典まで、まさにノンジャンルのあらゆる本を扱っている。ページは全部で3ページ、文字数約3600字から4000字で書かれている。


 この書評は、テクストの書かれ方に特徴があるので触れておきたい。週刊誌の記事は、出版界の中でも際立って独特な方法で作られている。ひとつの記事は事件などの情報を集めてくる取材記者と、最終的な原稿のまとめ役であるアンカー、担当編集者の集団製作で作られている。その方法が初期「ポスト・ブックレビュー」では採用されていた。


 倉本と編集者の話し合いで取り上げる本が決定されると、取材記者がその本に関する情報を集める。さらにテーマに関係する人物を探し出す。著者インタビューは倉本と編集者が行い、テーマに関連する人物への取材の多くは取材記者が行った。そこで集められた取材原稿を基に、倉本が最終原稿を書き上げていたのである。


 こうした週刊誌独自の方法論とともに、週刊誌ならではの機動力も語っておくべきだろう。その書評をいくつか読んでいくとわかるのだが、著者が北海道在住であれば北海道に飛び、京都の店がテーマであれば京都に趣いている。さらに長時間の飲食をともにするインタビューが行われたと想像できる原稿もある。それなりの金銭を使った機動力は大手出版社が出す週刊誌ならではのものだろう。コンピュータが普及していない時代に大量の情報が集まる週刊誌編集部という機能を使っての情報収集、人脈作りが前提にあることなどは、個人が本を読み原稿を書き綴っていく一般的な書評とは異質のものだ。「ポスト・ブックレビュー」最大の魅力である、複数の声が響き合うテクストの特性は、こうした機動力を基盤に作られていたのである。


 しかし、気の合う取材記者が仕事を離れたこと、82年より署名原稿になったことによる倉本の作家性の自覚が強まったことなどの理由で、80年代初頭より製作体制は変わっていく。一人の書評家が本を選び読み、それについての原稿を書くという一般的なスタイルになっていった。
 だが書物を巡るインタビューは初期より少なくなっているとはいえ、やはりそれは重要な要素となっており、多声的なテクストの味わいは変化していない。「ポスト・ブックレビュー」でどんな声がどのように響きあったのか、耳を傾けてみよう。


◆書物のテーマを実際に生きた者が登場するインタビュー


「ポスト・ブックレビュー」のインタビュー部分を読んで関心するのは、「識者」と扱ってしかるべき批評家や研究者たちを、前述しように「読者の一人」としてうまく捉え直しているところである。連載が始まった70年代後半を青年として過ごした者として、文化革命後のその「権威」を小馬鹿にする空気に満ちていたことはよく覚えている。こうした時代の風潮も反映していたのだろう。また当時は、文芸批評でいえば作家論を乗り越えた作品論が、次に作家に死の宣告を告げるテクスト論へパラダイムを変えていこうとしている頃であり、読者という存在が批評の中でうっすらと浮かびあがってきた時代ではあったということも関係しているかもしれない。だが所詮それは文学理論。こちらは週刊誌に載る書評である。100万人のサラリーマン読者に取り囲まれ、週一回で書評を書いていかなければならない作業は、文芸批評の理屈通りにはいかなかったはずだ。


 いわゆる文化人を識者として奉るのではなく、もっと楽し気に書物を読む読者として自由に声を発してもらうために倉本はいくつかの仕掛けを用意した。そのひとつが対象となる書物のテーマに関わる生き方を実際にしてしまった人物として書評の場に呼び込むことである。一例をお見せしよう。


 書物は『昭和20年11月23日のプレイボール』(鈴木明)。戦争によって各地に散らばっていた野球のスター選手を呼び集め、戦後初のプロ野球試合を開催させるために奔走する、ルポルタージュである。テーマは敗戦直後の組織論。呼び込まれた声の主は哲学者の久野収


「――確か阪神ファンでしたね。
久野 うん。これはキッカケが運動にあった。地元の共産党の連中と連絡をとる場所が、甲子園しかなかったせいだ。それまでは、少女歌劇の宝塚劇場でとっていたんだが、やばくなって変えたんだ。当時、普通の試合だと観客が千程度。左翼のどこでと指定すれば、そこで会えた。プロ野球には、特高も目をつけていなかったんだ。それで、ぼんやり試合を見ているうちに、阪神びいきになったんです」


 こうしてプロ野球との出会いを語る久野は、この書物の面白さを「たとえば生花などの家元制、疑似天皇制的なものではない、自主的集団の形成史を、娯楽の面から書いたことにありますね」と語っていくのだが、次にモンタージュされる地の文では、再建を目指す選手たちの前に官僚主義者が立ちふさがっている場面が描かれる。


 かつてのスター・プレイヤーたちが手弁当で集まる東西戦だというのに、「今年、移籍した選手は出場できない」「戦前まで巨人にいた青田昇選手は出場拒否」といった命令が事務局から出されるのだ。これは当時起こっていた読売新聞の労働争議とからむ巨人軍再建の事態が関係していたのだろう。そして青田選手は「戦争に負けた。価値の大転換があった。しかし何故か皆が集まって何かを決めようとすると、古くさい一行が、重要なことを邪魔する」と呟く。その時、敗戦直後の「自主的集団の形成」がいかなるものだったかが見えてくるのである。


 この書評には敗戦直後の組織論というテーマについて語る者はいない。そのテーマを実際に生きた者が登場し自らの経験を踏まえその書物の面白さを語っていくだけだ。その声は書物に収録された声と呼応し、戦後プロ野球の実質を浮かび上がらせるのである。


 テーマを設定し、その出力の仕方をエピソードを配分しながら調整していく作者に対して、こちらは、そのテーマを実際に生きた者が登場し、その経験によって書かれているエピソードをより実感のあるものにしてしまう。書評の読者たちとともにその書物の一番おいしい部分をたいらげてしまおうという具合だ。


 その最も過激な例が『チャリング・クロス街84番地』(ヘレーン・ハンフ)の書評に登場する映画監督「中川信夫の声であろう。この書物は、ニューヨーク在住の女性作家とロンドンのチャリング・クロス街84番地にある古書店店員の間で交された手紙だけで成り立っている小説だ。書物への愛情が男女間の情感へと微妙に揺れていくところなどウエルメイドプレイを観ているような雰囲気で、読書家の間で語られることの多い作品である。そのウエルメイドな物語の紹介のすぐ後に、『東海道四谷怪談』『怪異談 生きてゐる小平次』を監督した中川信夫の声が響き渡る。


「―――あなたは大へんな量の手紙を書かれるそうですね。
中川 ええ。大部分は葉書ですがね。ロケ先なんかで酒を飲みつつ、左手に葉書を持って筆で書く。一日五十通、書いたことがあります。これが最高。
―――宛先はどういう……?。
中川 家族宛です。五人いますから、ひとりずつ書いて、犬や猫にも書いて、あれだって家族だから(笑い)」


 中川は『チャリング・クロス街84番地』をまったく読んでいないはずだ。そんなことにおかまいなく手紙魔の驚くべき日常をその後も語るだけである。しかし人が手紙を通じて交信するというテーマを過激に生きるこの人物は、知り合いの俳優の妻が「何か淋しそうにしている」という理由だけで、「今日から一年間、電話がわりに一日一信送ると約束」してしまったというエピソードを突然語りだしてしまう。するとその経験はたちまち書物に書かれた女性作家と古書店店員の間で交された言葉へと混じり合ってしまい、文通だけが醸し出す情感が書評全体を染めあげる。こうして中川と同じくその本をまったく読んでいない書評の読者たちは、書物の一番おいしい部分を味わいつくしてしまうわけである。


◆書く行為を深刻且つ滑稽に語る著者たち


 では肝心の著者たちの声は、「ポスト・ブックレビュー」ではどのように響いているのだろうか。先にも書いたが、それは苦しく、だからこそ滑稽な声として収録されている。出来上がった著作を前にした作家の落着いた言葉ではなく、そのテクストが生成される有り様を思わせる肉感的な言葉を引き出すために、倉本は執筆時の様子を作家たちに執拗に訊いていた。


『白い山』の書評ではその著者、村田喜代子が邦文タイプで執筆をしていたことを明かし「原稿を書くときは、これから何十万回打つのだな、アリナミンを飲まねばと、まず思う(笑い)。一字一字カチャーンと打つでしょ。腕力がいるんです」と語る。


『海狼伝』の白石一郎は執筆のための儀式を話す。「まず緑茶・ゲンノショウコ・紅茶・抹茶と順に飲む。抹茶を飲んだ時点で、まったなしであると覚悟する(笑い)。そして仕事場に入ると、パンツと肌着一枚になります。(略)この儀式なしには、準備運動不足で落伍するランナーみたいになります」


 あるいは『世界大博物図鑑』の荒俣宏がこの全集を出したことによって金はなくなり「スタッフは過労で倒れ、もう限度を超えたありさまで」と告白するのに対し、倉本は「荒俣は、事務所の床に段ボールを敷いて寝ているという噂もあった」と笑っている。


『死の棘』の島尾敏雄は、夫人のミホと登場。小説を自ら清書したことを明かすミホに倉本が「ここには狂ったミホが描写されてるのに!」と思わずいえば「でも、作品ですから」とミホが答え、傍らの島尾が頷いている。まさに執筆時の作家の生身が感じられるという具合だ。


 このようにして、書物を楽し気に読み語る読者たちと、書物を書く行為や暮らしぶりを深刻且つ滑稽に語る著者たちの様々な声が、「ポスト・ブックレビュー」に収録されていたのである。


◆書物を「描写」し続けること


 先に書いたように、このインタビュー部分と交互に置かれる形で地の文があり、そこで書物を紹介するというのが、その構成だ。紹介の仕方も独特である。倉本はあらすじを書かない。引用もほとんどしない。小説、学術書、写真集を問わず、書物の一場面を「描写」することに終始する。


 小説の場合なら先に引用した五味康祐の作品紹介の「描写」をもう一度読んでいただきたい。網野善彦『異形の王権』なら「河原で僧が処刑されようとしている。合掌する僧のかたわらに放免がふたり。白地に派手な模様を摺った摺衣を着て立つ。左手、刑の執行に立ち合う検非違使庁の役人にまじり、さらにふたり。こちらも黒地ながらも派手な摺衣をまとう」と書く。あるいは篠山紀信の『SantaFe』の宮沢りえのヌードは「光っている。顔も、首も、すんなり伸びた鎖骨も形のよい乳房も。劣らずくっきりと輪郭を保って張った腰から、なだらかにカーウ゛を描きながら指先へと至る脚。下腹を隠す腕と手。それら全体が、発光しつつ、そこに、ある」と「描写」する。


 つまり、その書物にとって重要な光景を、小説なら物語のクライマックス、学術書はテーマが一番見えやすい構図、写真集の核心の一枚を、倉本は自分の筆でなぞるようにして書いているのである。それが私がいう「描写」だ。なぜ倉本は「描写」という方法にこだわったのか。その意図を倉本はあっさりと初めての書評集『出現する書物』のまえがきで明かしている。


「声帯(形態)模写がひとつの批評行為であるならば、『なぞり』も書評となろうではないか」


 声帯模写の芸人がモノマネをすることで、「ある人物」の「癖」を引き出すこと。その「癖」を見て、取り囲む観客たちが笑うこと、その「癖」をきっかけに観客たちが「ある人物」をもっと深く知るようになること。その全体が批評であるというのが前提の認識だ。


 そして倉本は、「ある人物」を一冊の書物に置き換えて、21年もの間、書物を「描写」し続けた。書物の「癖」を引き出すために、それによって書物をもっと深く愛してもらうために。そのことが書評であると信じて。


 これは倉本が書評を書く前にいくつかの週刊誌で人物ルポの仕事をしていたことと深く関わる。取材対象の人物の「癖」をモノマネした時、その人物の生き方を明かす鍵を拾うことがあることをその生業で会得していたからだ。倉本は、週刊誌体制で書評を書き始め、人物ルポの方法論を書物へと向けていたのである。


「ポスト・ブックレビュー」は、書物のモノマネと笑い声も混じる無数の声が交互に置かれる形で構成されている。その書評は全体として、楽し気な言葉の劇場になっていた。


  こうして再現してみせた倉本四郎の書評空間が今、忘れられようとしている。そのことによって失われていくものは何かといえば、「ポスト・ブックレビュー」が軽やかに示したこと、書評とは自由で大胆なテクスト空間を構成できるものなのだという認識だ。現在書評の多くは、新聞や雑誌での定型があまりに継続的に続いているため、ある面、書評家の技芸を楽しむようなジャンルになっている。そのため、この批評空間が自在な可能性をもっていることを忘却している。


 書物というモチーフは骨太で巨大なものなのだ。書物を前にして私たちはもっと自由で大胆な行為ができるはず。そう、「ポスト・ブックレビュー」が採取した時代の声とは違う、今ならではの書物を巡る声が響き合う書評空間を作り上げることも可能なのだ。では、それはいったいどんな声なのだろう?
(「新潮」2010年5月号)

海の家時間

海の家時間
2013年10月、僕が仲間と編集していたメールマガジン「高円寺電子書林」が休刊になりました。
以下にpostしたのは、2012年8月号に掲載した「海の家時間」という記事です。


2012年8月、葉山の海の家で、プルーストの『失われた時を求めて』をテーマに、対談を聞いたり、みんなで話合ったりする
「海辺のプルースト」という小さなイベントを行いました。


対談をしたのは、夏葉社の島田潤一郎さんと校正者の大西寿男さん。
島田さんは20代の時に「あたかもノルマのように日々プルースト読みをひたすら続けたという」人、
高円寺電子書林の編集部仲間でもある大西さんは、校正者として、ゲラで全編読みきった人。
お二人の対談は、なかなか聞きごたえがあるものでした。


メールマガジンの特集は、その対談の抜粋(構成・北條一浩さん)と、僕の原稿「海の家時間」で構成されています。


ここでは後半の僕の原稿だけ載せます。
どうぞ、読んでみて下さい。


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●海の家時間
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 とりとめもなく語った言葉を記憶する

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 ○参加者のみなさん

 *構成/渡邉裕之
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 この夏、8月7日。僕たちは、神奈川県の葉山にある一色海岸に建つ海の家にいた。
 この海岸は葉山御用邸の裏手にある。たぶん、皇宮警察警備体制と関係していると思うのだが、海水浴場がもっている猥雑さが薄い。東京からそれほど遠くない割には、どこかおっとりした美しい砂浜だ。

 
 プルーストの『失われた時を求めて』をめぐる対談をし、その後、参加者が思い思いの話をする会を、海の家で開こうと考えたのは、浜辺だったらリラックスできると考えたから、そして、この建築物が「時間の流れ」というものを深く感じさせてくれるという思いがあった。

 
 1990年代後半から、葉山の海岸を筆頭に新しい形の海の家が注目されるようになってきた。従来の海の家と違うところは、カフェに近いくつろいだ空気感覚をもったスペースであること。そして、海の家の若いスタッフたちの、バブル崩壊以降の再生デザイン文化を踏まえた、セルフビルドによる建築物だということが最大の特徴だ。

 
 彼らは夏が近づくと浜辺で小屋を作り始め7月上旬に店を開く。夏の間、人々は家族や友人、恋人と連れ立って浜辺の小屋に集まってくる。海を見ながら料理や酒を楽しんだり、音楽を聞く。

 8月の終わり、夏を惜しむ人たちが集うパーティー。そして次の日から解体工事が始まる。ただ壊すのではない。来年のことを考え、部材がまた使えるように配慮し解体する。そして浜辺から離れた場所にある倉庫への収納作業。収納の順番は、建設時の最後にセッティングされる食器類が最初で、一番に立てる木の柱が最後だ。終了の作業に来年への準備が含まれている。


 彼等の労働を見ていて、僕がいつも思うことがある。季節の巡りとともにゆったり動いていく「時のサイクル」だ。


 海の家は、夏だけ存在する小さな仮設の小屋だが、そのことによって「時間」を強く意識させる建築物なのだ。


 記憶をめぐって書かれている長大な小説、『失われた時を求めて』、その書物について語りあう場所として、僕たちは海の家を想定した。


 海辺はゆっくり時間を味わえそうだった。そこに建つ海の家は、夏が終われば消滅し、秋以降は僕らの記憶だけのものになる。プルーストにはぴったりと思えたのだ。


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 プルーストの後は、ただただ言葉を交わして


 当日の夕方5時30分、僕たちは一色海岸の海の家「UMIGOYA」に集合した。目の前には相模湾、その景色の右の方、夕陽は傾いていて、伊豆半島へと落ちようとしていた。


 集まったのは10人、対談をする夏葉社の島田潤一郎さんに、大西さんを含む僕たち「高円寺電子書林」編集部4人、それに編集部がお誘いした5人の方たちである。


 小屋というよりは木で組んだ大きなテラスのような海の家の奥の席に、僕がみんなを案内していると、この土地の友人と目があって、「おっ、東京人ぽいなあ〜」といわれた。上半身裸でビーチサンダルのあなたには、長ズボンに革靴の人もいる私たちは、そりゃ〜無粋な都会人でしょ、そんな私らがここで読書会をやっちゃうんだからね、と心の中で呟く。


 あっ、さっき大西さんが海の家のテーブルにうれしそうに並べた『失われた時を求めて』全13巻(集英社)を、もっとうれしそうな顔をして撮影をしているメンバーがいる。背中のビーチサンダル親父の皮肉な視線を意識しつつも、うわ〜、この歓びわかるな〜と思った瞬間、「海の家でプルーストを読む」企画に没入してしまった。


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 「この小説は、記憶を扱っているのだけど、思い出し方が小説のプロットとして思い出すのではなく、うまくいえない思い出し方で行っていて」や「京都のお寺でお墓参りした時も校正をしていて」「長編を書かなかった吉行淳之介は、長編を書くには目を瞑るところが必要だといったんです」「だったらプルーストは目を瞑っていない」そんな言葉が、潮風に流れていった。


 話の途中で夕陽が伊豆半島の山々に隠れ、それこそ「誰そ彼?」の暗闇になり、小さな電灯が点され、テーブルには奄美をテーマにした料理が並べられていく。


 島田さんと大西さんによるプルースト対談が終わった。けっこう聞き入ってしまったね、そういえば誰の携帯も鳴らなかった、めくるめく展開でした、それは大げさな! と笑いながら話しながら、ある人はバーカウンターにビールを買いにいき、ある者は、もう真っ暗闇の砂浜に降りていった。


 しばらくして、みんながそれぞれテーブルに戻ってきて自己紹介をしながら雑談が始まった。ひょんなことから「荒川遊園」の話になった。荒川遊園は、都電の荒川線の沿線にある「散歩の達人」購読者が好きそうなシブイ遊園地だ。誰かがキングレコードが発足したのが荒川遊園の場所だったんじゃないかなといってSPレコードの話をしだした。


 参加者の一人、書評紙の会社に勤めている高田雅子さんが、「今でもアナログレコードを作り続けている会社のフリーペーパーを、前に編集していたことがあるんですよ」という。話を聞くと非常に面白そうな内容だ。それから「高円寺電子書林」編集長の北條さんや大西さんがLPやCD、レコードの溝についての話をしだす。たぶん、先のプルースト対談に影響されているのだ、時間をパッケージする入れ物の話を僕たちはしている。


 本好きが集まったのだから、当然、記憶をパッケージする書物の話に流れていく。それが転じて書物が生み出す時間について。大西さんが組版と時間の関係を話す。タテ組とヨコ組では読むスピードは違うということ。その理由はまだわかっていなくて可読性という仮説がひとつあるらしい。人間の目は上下に動くのが苦手、左右に動く横組の方が速いスピードで読めるという。が、と大西さんは続ける、日本人はタテ組に慣れているから、そのスピードの差は他の文化の人とは違っていて……。


 組版の話の流れで、参加者の一人、詩の勉強会「ポエトリーカフェ」を主催しているPippoさんが、島田さんの夏葉社から刊行されている『さよならのあとで』(ヘンリー・スコット・ホランド著)に触れる。一編の詩だけを一冊にした書物だ。1ページ1行というページもあり、そして白ページもたくさんある書物。「一編の詩はひとつの世界なんだけど、一行にも世界があることを感じました」とPippoさん。


 書物というモノ自体に関わる時間ということなのか、北條さんが「古本の世界で初版でなければ買わないという人がいますよね、あれは何なのかな」という疑問を口にする。西荻古書店音羽館のスタッフである青年、今野真さんが、「ザ・ファーストが一番偉いという価値観からきているんでしょうね。その価値観はきっとものすごく古くからあって、それこそ西洋近代以前、プラトンイデア論ではないですけど、ザ・ファーストから時間がたつほど、本質から遠ざかっていくという考えがあるのでは」と語った。


 なんかすごい意見じゃないか、彼はフランス映画を研究していたそうだ。その後、話はどんどんそれこそ本質から遠ざかっていったのだが、そうだ、時間と本に関する印象的な話がそこであった。


 吉祥寺の書店に勤めている服部ユキさんは、「私、人を待つことがぜんぜん苦にならないんです」と話した。それから「前に、本を読んで、私を待ってくれていた人がいたんです。私はその時、読書しながら待つ人の姿というものを初めて見たんですが、その佇まいがとてもきれいでした」と語った。今、この話は改札口脇に立って本を読む人の映像として、僕の記憶に残っている。


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 ◆読書会の仲間が醸しだす時間を求めて


 このメールマガジンで読書会をしてみたいと思っていた。読書会をリードしてくれる人物も大事だが、メンバーの日常の「時間」が大切だと考えていた。


 今、僕たちは本が読めない。自分が本当に読みたい本をゆっくりと考えながら読む「時間」を失っている。


 忙しい日常の中で、なんらかの工夫を個人的に行って読書の時間を作っていくことも必要なことかもしれないが、ゆったりとした時間、考えられる時間は、ある共同性がないと生み出せないのでは、と思っている。


 僕は自由ラジオ局とか劇団とか、同じアパートの仲間たちとか何組かの集団で生きた経験をもっている。そこにはその集団特有の時間が流れていた。こうした経験を踏まえていうのだけど、読書会の仲間たちを上手に作っていけば、そこに特有の時間を醸し出すことは可能だと思う。


 しかし、問題は、喫茶店か何かで行われる読書会の時間以外の時間、読書会のメンバーそれぞれの日常で、その会独自の時間が流れていくことができるかということだ。
 都市でバラバラに暮らす僕たちが、読書会とメールマガジンを使って、ある流れをもった時間を共有することができないだろうか。


 メルマガ編集部のコアメンバーは、フリーランスで生きている者たちだ。劣悪な条件の労働を強いられることもあるが、時間はまあ自由に管理して生きてきた。


 僕は、こうして生きてきた知恵を、書物を作るというよりは、書物を取り囲む今の人々の暮らしのために使ってみたい、その一つに時間への取り組みがある。
 (このあたりは、編集部の集団的考えというよりは、ワタナベ個人のものです。)


 読書会ではないけれど、僕たちはこの対談+雑談の会を、こうしたことも考え開いていた。


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 ◆夜の闇と選ばないこと、そして海を渡っていく家


 夜が深まっていく。いつのまにか島田さんがいないことに気づいた。どこにいっている? しばらくすると戻ってきた。


 「煙草を買いにいって道に迷っていたんです。葉山の夜はすごく暗くて。そしたら花火をしている外国人がいて、『煙草屋はどこですか』と聞いて教えてもらいました。暗い松林を歩きながら、この時間のことは忘れないだろうなと思っていました」


 北條さんが何かを思い出したみたいで話しだす。「鎌倉で、肝試しみたいなことをしたことがあるんです。外灯もないような場所で……鎌倉の夜は暗くて怖かったな〜。本当に何も見えなくて。あの闇の時間は忘れられない」


 Pippoさんが「恐怖ってのはね」といってこんな話をする。「メアリ・ダグラスという文化人類学者の『汚穢と禁忌』(思潮社)という本があって、そこで恐怖を解明する文章があるんです。人は切った髪の毛や爪を怖がる。それは何故かというと、自分の体に付いていたものが切り離され外部にあると、人はそれを理解できない。だから切られた髪や爪を怖がるといってるんです。闇に対する恐怖もそれに近いところがあるんじゃないかな」


 そこで話を止めるのが怖いのだが、Pippoさん……。人の肉体には切り離すと闇となってしまうようなモノがあるということか……すごい怖いじゃないか。浜辺は真っ暗闇だ。
 詩を書いている首都大学の大学院生、篠田翔平さんが口を開いた。


 「先日、東京都写真美術館で開かれた、写真家の川内倫子さんと現代美術作家の内藤礼さんのトークショーに行ってきました。内藤さんが一番に聞いたことが『川内さんにとって選ばないことって、どういうことですか?』ということだったんです。写真を撮らない瞬間についての、それはなかなか答えられない質問でした。川内さんも困ってしまって……やはり撮る瞬間、選ぶ瞬間のことしかいえないんですね。それで記憶のことなんですけど、『これは覚えている』という瞬間があるんですね。では、『覚えてない』ってことはどういうことなんだろう? と思うんです。『覚えている』ことは、今の僕たちみたいに喋ることができるけど、『覚えてない』っていうことはどういうことなんだろう。プルーストとか読んでいると(1巻しか読んでないんですけど)『書かれること』と、『書かれないこと』と、そこの境目がわからない。選択っていうのをしていないと思えるのです。ここは書くけどここは書かない、あるいは、この消えている部分をこの書いている部分で代用しようという思考法ではない。そう思えるんです」


 それを聞いて、高田さんが、「選択」をテーマに研究活動を続けている学者、シーナ・アイエンガーについて語りだす。


 「篠田さんの話から、コロンビア大の心理学者について思い出しました。彼女は小さい時に目を患って全盲なんですよね。しかし、選択肢が限られていたからこそ可能性が広がった、自由になれた。そして大きくなって人間の選ぶという行為に興味を持ち、研究をはじめたそうなんです。その前の闇の話も関連させて考えると、彼女は闇の世界で『選択』について考え、そして自由を得たということになりますよね」


 海は真っ暗で、見えない分、海の広がりを強く感じる。波の音だけが大きく轟いている。


 そういえば、さっき北條さんがある映像の話をしていた。昨年の東日本大震災津波によって様々なモノ、そして人が海にさらわれた。彼が見た映像は、「家がそのまま家のカタチをして太平洋を渡っていく映像だった」という。


 「不謹慎かもしれないけれど、美しいと感じました。忘れられない映像です」


 家は人に強い印象を残すカタチなのだと思う。家族の記憶をパッケージしたカタチは忘れられなくなる。


 「だから、海を渡っていく家を見て北條さんは感動したんじゃないのかな」と僕はいった。


 人に強い印象を残すカタチがある。その一つが家で、それから書物があると思う。この日、参加者の何人かが、テーブルに並べられていた『失われた時を求めて』全13巻を撮影していた。海辺をバックにそれは魅惑的なモノだった。


 しかし、書物は撮影したが、この海の家の建物を撮影した人はいなかったんじゃないかな。でも海の家という言葉がみんなの頭の中に残って、映像として浜辺に建つ家のカタチとして記憶に残るのかもしれない。「こうして僕らは集まった」


 この対談+雑談の会。その時間だけに終わらないような仕組みができないかと、僕たち「高円寺電子書林」編集部は思っていた。


 北條さんは、「長い時間を相手にする」というテーマを踏まえて、『失われた時を求めて』全巻読破を成し遂げた2人の対談を企画した、大西さんは語るだけでなく、プルーストの手書きのノートと原書をモチーフにしたお土産を作って皆に渡した(この人の愛情深さといったら……)、そして僕は、この夏が終われば消滅してしまう浜辺の舞台を用意した。


 いろいろと考えてはいたが、行えたのはこの程度のことだった。書物をめぐる時間に対して、また何か仕掛けたいと僕たちは思っている。


 そうそう、このメールマガジンの発行人である茶房高円寺書林の原田さんも、もちろん参加した。なんか楽しそうだったね。原田さんが撮影した写真と文章で、当日の様子がわかる記事が、茶房高円寺書林のブログ(☆)で見られる。こちらもよろしく!
 ☆ http://kouenjishorin.jugem.jp/?eid=1937


 そして参加者のみなさん、夏葉社の島田潤一郎さん、ありがとうございました。
 みなさんが、この記事を読んでいる時には、もうあそこには砂浜があるばかりです。
 

ホットなボリス・ヴィアン!

ホットなボリス・ヴィアン! そして黒人音楽都市パリ     〜鈴木孝弥インタビュー〜

『うたかたの日々』や『北京の秋』などを書いたフランスの作家ボリス・ヴィアン(1920-1959)。彼がジャズを愛し、自らトランペットを演奏、またレコードに付いている「解説/紹介原稿」をたくさん書いていたことは、よく知られている。
こうしたライナーノーツ原稿を集めたのが『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。その本を訳した鈴木孝弥さんのお話を聞いてきた。
彼はレゲエ専門の音楽ライター。たとえば、雑誌「ミュージック・マガジン」を開くと、孝弥さんがアルバム・レヴューのレゲエ・コーナーを担当している。
しかし、なぜレゲエ専門のライターがフランス語の本を訳しているのか? その理由が興味深い。ヴィアンと関連しているのだ。

● 黒人音楽の出力都市、パリ


ーーーなぜ、レゲエライターがフランス語を? 

■鈴木孝弥(以下、孝弥)  パリがレゲエの一大拠点になっているからです。
僕は1989年から94年までタワーレコードの渋谷店で仕事をしていました。昼間はジャズのバイヤーやって、夜に「レゲエ・マガジン」などの原稿を書いたりしているという生活です。
それから同時にフランス映画も好きでよく見てたんですね。時は渋谷系の時代、ピチカート・ファイヴ小西康陽さんやサバービアの橋本徹さんが、音楽とともにフランス映画を多数紹介していました。僕はそのちょっと前からフランス映画にはまっていました。
で、海外旅行にでもと思った時、フランスに行こうと決めたのです。それで91年にパリに行きました。
そしてパリに着いて驚いた。町貼りのポスターを見ると、東京に来ないレゲエ・ミュージシャンがいっぱい来ているんですよ!
ジャマイカの大スター、バーニング・スピアーとか、イエローマンとか、アイジャーマンとか、コートジボワール出身のレゲエ歌手アルファ・ブロンディとかが頻繁に来ていることがわかったんです。


ーーーなんでそんなにいっぱい?

■孝弥 レゲエはヨーロッパ大陸の各都市で人気があり、一度上陸してしまえば、地続きだからバスで回れる。ボブ・マーリーの言う〈バビロン・バイ・バス〉ですが(笑)、どう回っても、そのツアー順路の交差点となる都市がパリなのです。
そしてうれしいことに、僕が好きなルーツレゲエのミュージシャンがパリに多く来ていた。
ジャマイカ本国でも最近はルーツレゲエ・スタイルが回帰してきていますが、当時バーニング・スピアーのような古典的なレゲエは、いわば年配向けの懐メロ扱いでした。若者の流行はダンスホールスタイルが圧倒的に主流でしたから。でもフランスでは現在に至るまで、常にルーツレゲエが主流です。
その理由はいくつかありますが、重要なことは、フランスには旧植民地諸国だったアフリカから移り住んだ黒人たちが多くいるということ。この国に住んで搾取され、余所者扱いされてきた黒人たちが、ルーツレゲエに心情を託せるんですね。ルーツレゲエの基本精神はアフリカ回帰。在フランスのブラック・ディアスポラがジャマイカのそれに共鳴している構図です。つまりフランスは、ルーツレゲエのミュージシャンにとってダイレクトでピュアなリスナーが確実にいる場所なのです。そして、この音楽のよさが白人たちにも理解されて、今ではファンは白人の方が多いくらいです。


ーーーパリが、レゲエ・ネットワークの大きな拠点であることを発見した孝弥さんはどうしたのですか?

■孝弥 いろいろ知りたいことがあり過ぎて、1週間くらいのヴァカンス滞在ではとても足りない。短い滞在では、レゲエも見たいライヴに当たらないし。それで3回旅行した3回目のパリで、だめだ、こりゃ、住まなきゃいけないな、と決心しました。それでタワーレコードを辞めて94年の秋にパリに行きました。フランスは大学の学費が無料なので、長く滞在するためにも、それから滞在許可証のためにも、大学に入ることは不可欠だった。それで、必死にフランス語を勉強してパリ第3大学に入れてもらいました。とにかくそこに入るまでが、わが人生で一番勉強した時期ですね(笑)。それでなんとか、都合4年近くパリにいることができました。


ーーーそれでレゲエのライターがフランス語ができるようになったんだ。
■孝弥 パリ滞在中はけっこうライブに行ったし、セーヌに浮かべた船で行うサウンドシステムにもよくいった。ジャズは特に好きなのがモダンジャズの昔の演奏なので、ライブよりもむしろパリの専門のラジオ放送局を楽しんでました。
レコードを買うなら、レゲエもジャズもはっきりいって東京の方がいい。東京は世界中からレコードが集まってくる場所だし、バイヤーも世界で最高の目利きが集まってるところですからね。
しかしですね、パリは音楽に対する愛情が半端じゃないです。ものすごく深い愛情を傾けている都市だということが住んでつくづくわかりました。
実はパリがレゲエの拠点となっている最大の理由は、その昔、アメリカで住みにくくなった黒人ミュージシャンを暖かく迎えたという歴史的背景があることではないかと考えます。
それを踏まえて専門の音楽を流す放送局やメディアがあり、その一部がレゲエに特化して愛情を傾けているわけです。
そして、戦後のパリで黒人ミュージシャンを暖かく迎えた人間たちの中心人物の一人が、ボリス・ヴィアンなのです。


●ジャズに向うボリス・ヴィアンのホットな言葉


ーーーボリス・ヴィアンのジャズに関する原稿の特徴は?

■孝弥 雑誌原稿の場合は、ひと言で言って、かなりけんか腰ですね。「ジャズにはかっこいいもの、じゃないものがあり、また本物、偽物がある。お前ら本当にそれがわかるのか?」と読者に向う。そういったスタイルです。
アメリカのジャーナリズムもけちょんけちょんに批判します。特に人種差別をするような奴らには容赦なかった。自分が愛するミュージシャンが黒人ゆえに仕事がなく、ものすごい芸術家なのに、それ相応の扱いをうけていないこと。そういうことにものすごく怒っています。
黒人ミュージシャンにとって、そんな音楽ライターがいるパリは特別な場所だったんじゃないかな。行けばフランスのファンが大歓びで迎えてくれる。曲はよく知っているし、レコードも真剣に聴いてくれている。
それで住み着いてしまった人もいる。バド・パウエルなんかはその中でも有名な一人ですね。あと、50年代の初め、マイルス・デイヴィスは、「1年12ヶ月のうち、8ヶ月はパリにいたい」なんてことをいっていました。
アメリカのジャズメンを暖かく迎え、やりたいことをしっかり理解し、コンサートをオーガナイズし、アメリカのレコード会社がつくらないなら、フランス録音・原盤で出す。フランスがそんなアメリカのジャズに対する重要なサポート国になっていった過程で、ボリス・ヴィアンが果たした役割は非常に大きいのです。そうした土壌があって、映画「死刑台のエレベーター」の音楽のマイルスの録音が、「危険な関係」のアート・ブレイキーの映画音楽がある。これは彼らを暖かく迎えてくれたパリのジャズ文化へのお返しみたいなもんですよ。


ーーー音楽を制作する側にいたヴィアンのライナーノートの原稿は、どんな具合ですか? 売り物に付く解説/紹介の文章ですからね。

■孝弥 そこが面白いんです。商品を売る立場にいて、またレコード会社からギャラをもらっているにも関わらず迎合していないんですよ。
ただし雑誌の原稿のようには直接的ではありません。だけど、わかる人にはわかる書き方をして、彼がダメだと思う音楽は批判しています。
ボリス・ヴィアンの文章の魅力は、小説も含めて、なんともいえない捩じれ方にあると思います。単にひねくれているのではなくて、お尻がむずむずと痒くなるような捩じれ。それはひとりよがりや、わからない奴にはわからなくてもいいんだぜという不親切に感じる時もあるんだけど、その捩じれの奥にある彼の真意が感じられたときにニヤリとしてしまう。
つまり、ライナーノートの原稿に関して言えば、たとえ厳密な審美眼と強烈な好ききらいがあるヴィアンであっても、売り物に印刷される宣伝文ですから、表現としては皮肉や反語法にまみれた、捩じれてよじれたものにならざるを得ないことが多々あるわけです。そんな中で確立されていった彼のテクストのスタイルを楽しめるのが、この『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』なのです。


ーーー翻訳が難しそうですね?

■孝弥 レコードバイヤーとしてAからZまでジャズは一応聴いていますから、ヴィアンが好きな音楽、嫌いなものはわかります。しかし表現の真意がどうしてもわからない時はフランス人の知り合いに聞きます。しかしフランス人でもわからなかったりする(笑)。
褒めてるか、けなしているのかよくわからない文章というのは、ヴィアンだけの問題ではなくてフランス人の言葉のセンスの問題というところもある。どっちともとれる言葉を日本では「玉虫色」とかいってネガティブに評価してしまいがちだけれど、彼らはどっちつかずの表現自体に慣れていて、それが修辞法として練られた表現であるなら積極的にOKしてしまい、その不明瞭さを味わうようなところがある。


●ヴィアンの奇妙な文体とアドリブ


ーーーヴィアンの小説の中に出てくる、独特のわかりにくさはどう思います?

■孝弥 あのわからない文章ができた理由のひとつが、ジャズのアドリブ技法にある、と考えると理解しやすいと思います。
スイングジャズは彼も好きだったけれど、あれはむしろダンスのための、いわば社交性、娯楽性に重点が置かれた音楽でした。白人社会の社交場でジュークボックスと化するだけのジャズに満足できなくなり、「あんな演奏は飽きたよ。オレたちはもっと芸術性を追求したいんだ」といって黒人ミュージシャンたちが産み出したのがビーバップのスタイルであり、それがハードバップに変化していきます。いずれにせよポイントはアドリブです。白人がつくったミュージカルの曲でもなんでもいいからもってきて、そのテーマ(主旋律)を頭とお尻において、その間の部分は全員好きなように順番にアドリブを展開させ、感覚の独自性をアピールする。つまり、そのアドリブ・プレイを彼は小説にも導入したと考えるとしっくりくると思います。


ーーーたとえば『うたかたの日々』の主人公たちが遊びにいくスケートリンク場で、奇妙な言葉が連なっていくところはアドリブ的ですね。女性スケーターが「大鷲のポーズ」を決めることによって、卵を産み落とし、その卵が割れ、殻を拾い集めに、日本語では「お小姓清掃隊」と訳されたフランス語の古語を使って呼ばれている集団がやってくる言葉の流れとか。

■孝弥 スケートリンクというテーマを提示して、ミュージシャンがソロをとるように自由なイメージで書いていく。イメージや展開の仕方が少々飛躍しても、スケートリンクというところに着地できればいいという感じでしょうね。
同じ方法論で文体の自由を追求したのがアメリカのビートジェネレーションの作家たちでした。彼らも黒人のジャズを愛し、その演奏のように詩や小説を書こうとした。ジャック・ケラワックがトイレットペーパーのような長い巻紙を使って延々と原稿を書いていたというのは、延々と取り続けるソロのアドリブのようにずーっと意識が途切れず書き続けるためでしょう。


ーーー孝弥さんも音楽ライターとして、ボリス・ヴィアンを意識してますか?

■孝弥 近づきたいという気持はある。ライターには、新しく生まれた音楽を世の中に紹介するのが仕事というスタンスの人がいます。それもわかるのだけれど、ただの宣伝マンになっていく可能性がある。特にアーティストのインタビューを多くすると、仕事は増えて生活は楽になるだろうけど危険です。向こうがいいたいことを拾っていくうちに宣伝マンになっちまう。
僕は「あんたが勝手に作ったものは、こちらも勝手に評価する」という立場に立ちたいので、インタビューはあまりしないことにしています。
アーティストとして世の中に音楽を出したんだから、人から何を言われてもいいと思うんです。だから俺も勝手に書く。鈴木孝弥として書いて、それは雑誌社に買ってもらう原稿だから、アーティストに何といわれてもかまいません。ぼくは好きなことを書くことしかやりたくないし、それで文章を買ってもらえなくなったらこの仕事は辞めます。


ーーーボリス・ヴィアンみたいに、強烈な審美眼があり、文体がある音楽ライターって、日本にいますか?

■孝弥 「ミュージック・マガジン」でいえば、ジャズ批評の松尾史朗さん。彼はヴィアンを彷彿とさせるくらい強烈な皮肉を書きますね。それから歌謡曲/Jポップ担当の保母大三郎さん。厳しい審美眼と独自の文体をもっている人です。


ーーーヴィアンは59年に亡くなってしまうのだけど。そのことについてどう思います?

■孝弥 ジャズでいうとビーバップとハードバップまで彼は見られたということです。残念なことにフリージャズを見ることができなかった。聴かせたかったですね〜。
勝手なことをいわせてもらうなら、あと20年生きたなら、レゲエをボリス・ヴィアンは絶対好きになったと思う。レゲエもジャズも根底にはブラック・ディアスポラの問題があって、それが音楽を通して出ていく。そのプロセスは同じです。そこをボリス・ヴィアンはしっかり見れる人だと思う。
偏狭で無理解の白人どもに黒人ミュージシャンが食い物にされることを許せなかったヴィアンは、フランスにいるのだけど、ジャズファンとして海の向こうからアメリカの差別主義に対して徹底的に怒った。そんなことができる人は、音楽が変化しても、黒人音楽の構造をしっかりと見れる人だと思います。


●出力都市、もうひとつの物語


ーーーここで話を変えて、孝弥さんが『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』と(09〜10年の)同時期に出した翻訳書『ジャズ・ミュージシャン 3つの願い』(パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター ブルース・インターアクションズ)について話を聞かせて下さい。

■孝弥 翻訳といっても内容は、60年代のジャズメンを撮影した写真集プラス・アンケートという体裁の本です。写真を撮ったパノニカは、イギリスの財閥ロスチャイルド家に生まれた女性で、そもそもジャズ好きな人でした。戦前、彼女はフランス人男爵と結婚してフランスで子供をつくり、戦時中はレジスタンス運動を行ったりしています。戦後は大使夫人になったのだけど、その暮らしがつまらなくなり、男爵と離婚し、50年代の半ばに単身ニューヨークに渡ってしまう。そしてヴィアンが黒人音楽家を擁護したように、彼女も自分の大好きなジャズ・ミュージシャンたちを助けるわけです。なんてたってロスチャイルド家の人だから金はある。ミュージシャンのパトロンになったり金を貸したり、住むところがない人には超一流ホテルのスイートを提供したりする。そこで夜な夜なセッションが始まり、ホテルからうるさいといわれて「出ていけ」といわれたら3倍の金をだして、演奏を続けさせるような人です。またレコード会社やクラブとの契約でトラブルが起きた場合、彼女は乗り込んでいって黒人ミュージシャン側に立って解決していった。
そんな彼女を多くの黒人ミュージシャンが慕った。彼女にいろんな人が曲をプレゼントしています。たとえばソニー・クラークはズバリ「Nica」という曲を。ジジ・グライスは「Nica's Tempo」、ケニー・ドゥリューなら「Blues for Nica」、ホレス・シルヴァーは「Nica's Dream」とか、まだまだあります。
そんな風に、パノニカと彼らはものすごい友情関係になっていくわけです。また、彼女はアーティストでもあり、ずっと写真も撮っていましたが、そこでも彼らジャズ・ミュージシャンを最新型のポラロイド写真で撮影しました。
当時のレコードジャケットとか見ると、よくわかるのだけど、黒人ミュージシャンは白人に舐められないようにと、ぴしっとスーツで決めていますよね。
しかし、パノニカの前ではくつろいでいた。そんな彼らの生の表情が記録されています。そして、ここが面白いのですが、パノニカはポラロイドを撮影する際に「もしあなたの願いが、3つかなうとしたら何を願う?」と一人ずつ聞いていた。
この本には、その、300人くらいのミュージシャンの写真と、彼らの「3つの願い」が集められているわけです。
「家族とすこやかに暮らしたい」、「仕事が欲しい」、「人種差別がない社会」……いろいろな願いが書かれています。


ーーーいい本だなあ〜。60年代に出版されたものですか?

■孝弥 それが違うんです。ここにドラマがある(笑)! 彼女は写真とテクストをまとめて70年代に出版社に持ち込みます。
しかし、いかんせんジャズは大きく変わっていた。彼女がつきあったのはビーバップ、ハードバップ期の人たちでした。その後、新印象派というのが出てきて、ハービー・ハンコックウェイン・ショーターとかが登場、フリージャズ後にはエレクトリックが導入され、フュージョンも出てくる。
戦後からハードバップ期までの動きと、そこから70年に入るまでの音楽スタイルの変化のスピードは全然ちがった。さらにライヴァルのロック音楽が台頭してくれば、ジャズ自体内部に、新しい音楽として復権するための自己改革が加速するわけです。パノニカがその本を売り込んだときはもうそんな時代に入っていましたから、ニューヨークの出版社の人間は、ここに登場している人たちは素晴らしいアーティストであることは理解しているのだけど、ネタとしては古くて「売れない」と判断し、出版を拒否するのです。
彼女は88年に亡くなります。それから次のドラマが始まる。パノニカはフランスに子供を残していて、その子孫が「私たちのおばさんの念願だった本を出そう」と動きだす。しかし、今度はあのロスチャイルド家が「出してくれるな」と圧力をかけたのです。要するに、彼らにしてみれば、パノニカはロスチャイルド一族のはねかえり娘で、アメリカで黒人にいれあげた恥ずべき女、ってことだったんでしょうね。それで、またも計画が頓挫してしまった。
やっと本が出るのは、パノニカが死んでから約20年後、2006年のことです。フランスの出版社が出しました。その本を手に入れて感動したので、訳したのです。


ーーーアメリカではでなくて、やはりフランスなんですね。

■孝弥 フランスでの刊行を受けて、あとからアメリカで英語版が出版されました。でも最初は、フランス人のパノニカの孫娘が編纂し、フランスの出版社から出たフランス語版です。要するに、これもボリス・ヴィアンのジャズ・テクストのように、フランスが出口となったアメリカのジャズの記録、というわけです。


ーーーアメリカで生まれた黒人音楽にも関わらず、そこでは自由に表現できず、出力するところとして、フランス、パリがあったこと。その出力環境は今でもあるということ、そしてこの環境をつくりあげた一人としてボリス・ヴィアンがいるんですね。
興味深い話でした。
鈴木孝弥さん、ありがとうございました。

*鈴木孝弥さんのブログ
http://www.3cha40otoko-dico.blogspot.com/

*出版予定
『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ? 〜ジャズ・エピソード傑作選』(ブリュノ・コストゥマル著・鈴木孝弥訳)
うから(エディシオン うから)より2011年11月中旬発売予定。

浅川マキ、代々木忠

レヴュー「喫煙の仕草は何を意味するか----DVD「浅川マキがいた頃」について」


 このDVDを手渡された後、下北沢の老舗の音楽喫茶「いーはとーぼ」に行った。マスターの今沢裕さんが浅川マキと親しいことを知っていたからだ。


 2010年1月17日、浅川は名古屋の「ジャズイン・ラブリー」での仕事で宿泊していたホテルで、予定の時刻に現れないことを不審に思った店の人間によって発見されたという。今沢さんが知り合いの店の従業員から聞いた話だ。情報を調べるためにネットで検索はけっこうするが、彼女の死はこうして確認したかった。


 このDVDは、浅川が生前に発売を目指して製作していた作品だ。ライブ映像を中心に、映画館(池袋・文芸座)、ライブスポット(新宿・PITINN)、バー(新宿・ふらて)といった空間それ自体が魅力的に映し出されている。
 浅川の立ち位置は、ジャズとブルースをバックボーンにしたシャンソン歌手というものだが、約40年の活動の中で多彩な音楽表現をしていた。ここでも植松孝夫、渋谷毅、セシル・モンローたちとのジャズ・セッションの他に、元ルースターズの下山淳が強烈なギター音を響かせるロックをバックに唄う彼女の姿を見ることができる。   


 ライブ映像の間に原田芳雄柄谷行人が登場する。浅川はこのような男が好きだったのだろう。暗がりで酒を飲みながら寡黙に語り、時に熾烈なことをしてしまう男。こうした男の噂は、映画館や店に屯す人間たちによって伝えられていく。浅川が選んだミュージシャンたちも、最初このような「噂の男」として彼女の耳に届いたはずだ。


 彼女は楽屋でバーのカウンターで、うつむき、そしてひたすら煙草を吸い続ける。ネット環境に耽っていて忘れていたが、それは新たな情報をキャッチしようとしている仕草なのだった。


「浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンドーbootlegg-」(EMI MUSIC JAPAN
(このテクストは、2010年の「嗜み」NO7<発売=文藝春秋>に掲載された)



小説『代々木忠について』

「チュー!」
突然、目の前の痩せた映画監督がいった。
「チュー!」
その横の眼鏡を掛けた映画監督もわざとらしく口をとがらせいったのだ。
「代々木〜?」
そして恰幅のよい映画監督がそういった拍子に三人は一斉に笑ったのだった。俺の名前がそんなにおかしいか?


 ここは新宿の弁護士事務所。明日から日活ロマンポルノ裁判の公判が始まるというのに、三人の映画監督はふざけているのだ。共産党本部のある街と、ネズミの鳴き声の組み合わせが面白いのだ。俺以外は全員東大出、こんなことで笑っていていいのかと思ったが、打ち合わせの内容がよくわからない俺はただ黙って会議につきあうしかなかった。


「創造主体無視の弁論」「猥褻を如何に組織できるか」「映像芸術論すら解体せよ」……俺にとってはやたらメチャクチャな言葉が、ただでさえ狭い事務所にまき散らされ、三人の映画監督は口から泡をとばしながら、その言葉をいじっていく。ちっともいやらしい映画を撮れないくせに、言葉のいじり方はそれこそ猥褻で、聞いているだけで暑くなり、実際、事務所は、夏のようだ。開襟シャツの弁護士先生が名画座の名画のように団扇を使っている。畜生、何もかも撮影所みてえに古くせえ! 気づいたのか弁護士先生、「ランニングの兄さんも監督さんだったのか」それを聞いて三人は「チュー!」「チュー!」「代々木〜」とやって、また大爆笑。


……あれから10年。あの三人はどうしたことやら……。俺は旅館の一室で女を前にしてこんなことをいっている。
「暑くないかい?」
 女は首を振る。確かにこの部屋はさっきからクーラーが効き過ぎている。
「だけど、暑くないかい? それ取ろうか?」
 繰り返すと何故か女は上着を俺に渡す。その時、テクニックとして女の肩に触れるのだが、それは確かに熱い肌。
 振り向けば髪の薄いカメラマンも痩せた音響も、そして俺も青褪め震えていて……チャンスだ、男たちが目だけになる時間がやってきた。それを逃すまいと、俺はカバンから取り出す。それはウィ〜ンと音を出す。その音の背後に俺たちは固唾を飲んで全員隠れた。


……それからまた10年。恵比寿の真っ白いビルのワンフロアーで、俺はうちの会社で働きたいという青年の面接をしていた。慶応大学に入ったのはいいが、広告代理店のようで何の希望もなかった。俺の言葉で救われたのだという。
 もっともらしいことをいっているが、こいつは「同時に撮っているな」と俺は睨んだ。目ではなく、あの空調の位置から見ていやがる。薄々気づいていたことだが、ここまで浮かび上がったのか、昔だったら神棚の位置だ。今、興味あることは?と聞いたら「地球温暖化です」


「嘘だ。絶対暑くなっていない」といったら、こいつは薄ら笑いをして浮上していった。空調の位置が海面か。アニメだな。空調の空中の慶応ボーイが「チュー」と口をとがらせた。そう、俺は貨物船のネズミ、そろそろ逃げ時だとわかっていた。

アメリカンヴィンテージと動物の干物


アメリカンヴィンテージと動物の干物

ある夕方、一人の男と出会った。アメリカの古着を売っている店をかつて経営していた。年齢は50代後半だろうか。生ビールを呑みながら男はこんな話をした。


「店の若いのをアメリカに行かせて買い付けの旅をさせる。一月くらいの期間で年に2,3回行かせていた。そんな仕事をして数年たつと、そいつの顔つきが変わってくるんですよ。元々は原宿、アメリカンヴィンテージものの店で働くオトコノコだ。自分で雰囲気の統一感をつくることもできるしキマッテいる子なんだ。顔はまあ美男子じゃないが髪型なんかでうまくまとめている。まあモテルでしょ。
そいつの顔が変化していく。
そんな野郎に久しぶりにあって顔を見る、相手はいつものように、あ〜ど〜も〜シャチョーなんて前と変らずいっているけど、その顔の統一感がなんだか崩れてる、前に会った顔とはどこか違うんだ。
崩れているのは、表情の一部がこわばっているからで。そのこわばりは、リーゼントの額の横に動物の干物のようなちょっと濃い茶色の少し硬めの皮膚がちょろっと出来てるからなんだ。
それを見るたびオレは、はあ〜と思うよ、いつも。
その硬くなった皮の部分を始めとして、顔が少しずつ変わってくるんだからね。なんというか、今風の小顔のオトコノコがこれをきっかけにして変っていく。最終的にはフィリピン人と大阪の場末を歩いている日焼けしたオジサンが混ざりあったような顔になるんだね。
1センチにもみたない小さなものですよ。だけど、俺はリーゼントの額に小さな動物の干物の皮を見つけると、すぐに思うわけよ、
ははあーん、こいつもケーケンしたんだって。


うちの店に来るような子はアメリカにあこがれている。ミッキー・カーティスさんの時代じゃないんだから、東京だってそんなにわびしくはない、あこがれるこたぁーないのに先輩たちが日劇のロックンロールにあこがれてたのと同じようにアメリカに夢みてる。そんな野郎がアメリカに実際に行って見れば、先輩と同じように、そして俺と同じようにアメリカにうちひしがれるんですよ。興味深いことに。
うちひしがれるといっても、細かく見れば、俺たちの時代とは違ってるね。
俺たちのうちひしがれ方は、バラ色のガラス器が割れるような仕方だったもん。
だって冷蔵庫を開ければいつも大きな牛乳瓶があり、そこからゴクゴク冷たいミルクを飲んでいる金持ちだらけの国だったはずなのに、行ってみれば、それはひどいホテルの部屋の汚いキッチンのガラス窓で。そして共同で使う冷蔵庫に飲み物や食べ物を入れておけばすべて同じ泊まり客に盗まれてしまうんだから。足下のタイルに散らばっていた牛乳瓶の破片を今でも俺は忘れないよ!


今の若い奴のはこれとは違う。白人女にうちひしがれるんだな。割れたガラスの断片ではなくて、それは人の肌に変化してるんですね。時代の変化です。
たとえば、こう。レストランで金髪の女が自分の前を通り過ぎていく。まったく自分を意識しないで。わざと知らんぷりしてんならいい、しかし、これは違う。まったく俺などいないという顔をして歩いていくんだよ。視界に自分がいないんだ。昔も今もそうだけど、白人の女にとって日本の男なんて埒外さ。
留学生? わかんねーなー、買い出しの商人には。商人は西部劇の時代の中国人のコックと変らないでしょ、今でも。
まあ、無視されても、そうされても別にいいぜと俺たち日本男児は思うんだな。遊びに来たわけじゃない、買い付けのために来たアメリカだ。別にPLAYBOYのピンナップの女の子が好みじゃあない。カンケーネエなんてな。どんな野郎だって思うよ。
俺たちの時代と変わんねーよ、今の子だってさ、男の問題は普遍的なんだからさ、わかるでしょワタナベさんだって。
今の小顔のオトコノコもそう、同じ、アメリカに行って白人の女に無視されればヘッ!なんて思うよ、ヘッ!なんて思うのだけど、壊されてんだよ、完全にハートが。
埒外を態度で示されるというのは、男にとってはやっぱりきついことなんだな!


ワカイモンが傷心の思いでホテルに帰る。階段を昇るブーツの足取りも重たい。そういや、デニムを何百本も埃ぽい倉庫でチェックし続けた一日だったんだってな。
そんな時だ、安ホテルで働いているヒスパニックの女の子が何か水仕事をしながら、微笑みかけてくれんだな。
中南米の女の子の微笑みってのは独特なんですよ、暗いんだよ〜スペイン人ってほんとに徹底的に酷いことをしたんですね。ものすごく酷いことをされた後に放心して、ぼんやりつったっている女の瞳の暗さがあって、でも唇は自分に向って微笑みかけてんのさ。
やっぱり、そりゃあ、ハートが揺り動かされますよ。それで声かけちまう。
まあ、女の子の方にも笑いかけた理由があるのだけど、それはそれ、おつきあいが始まるというわけだ。しかし、こちとら買い付けの旅だから、一カ所にずっといるわけにゃいかない。次の日の朝のベッドで別れることになる。関係はすべからく短いものだ。しかし、そうした女とのつきあいでも何かをやっぱり残すんだな。


ロードサイドの食堂でウエイトレスと交す自分のいい加減な英語を聞いて喜ぶその女の子の笑顔、買ってあげた下着を身につけた時の戯けた身振り、持っている手鏡のとても細やかな銀細工、尾てい骨あたりに彫られたやっぱり日本とは違うタトゥー、ファラチオをする時に決まって垂らす唾の今まで味わったことのないような粘り気、ふと目を覚ますと暗がりの中、携帯電話の光が照らす彼女の黒い瞳……。
そんなケーケンがウチのオトコノコに何かをのこしちまうんですよ。
それがあれですよ、成田空港の到着ロビーかなんかで、痒い〜な〜なんて顔をこすってみるとできている動物の干物のような皮、リーゼントの額のところにね。
それは1センチも満たないものだよ、だけどそいつができると顔が確実に変りはじめるんです。なんていったらいいんだろうな……やっぱりそう、フィリピン人と大阪の場末を歩いている日焼けしたオジサンが混ざりあったような顔になっていくんです。
オレは関西が嫌いだから一度もいったことがないから、知らないけれど、心斎橋の近くにはアメリカ村っていうのがあんでしょ、あそこはそんな顔をした商売人がいっぱいいるところじゃないかな。不思議なことにそんな顔になりだすと、商売がいっぱしにできるようになるんですよ。だからね、そいつは店長候補です」

食品工場とJ-POP

食品工場とJ-POP



今から3年前のことだけど、僕は工場で働いた。手持ちの金がまったくなくなり、先の原稿料の支払いの予定もなく借金もできない状態だったので、京浜工場地帯の食品工場で働くことにしたのだ。ファミリーレストランなどに出荷する肉料理やスープなどを大量に造り、それを店で手早く調理しやすいように小分けにしてパッケージしていく作業が、オートメーションという言葉にぴったりの動きをする機械とともに、その工場では行われていた。


中国人、フィリピン人、アフリカ人、そして日本人の数十人の労働者が同じ白衣を着て白いマスクを付けて作業を行うのだった。白を基調としたまさに食品工場の労働者の姿、この姿で同じような身振りで働くわけだが、それはひとつの集団ではない。中国人たちは他の国の人間と違って早朝から夜中までという信じられないくらい長い時間働いていたし、また中国人同士には何かしらの反目があり、たとえばトイレが汚れていれば「あれは福建省の人間がしたことだ!」という言葉が飛び交い、フィリピンの女の子たちはどこか陽気でバレンタインの日にはどんな男たちにもチョコレートを配り、もらったくせに「こいつらはフィリピンパブみたいだな」という日本人の男は嘲り、アフリカの背のすらりとした女の子は休憩室の暗がりで携帯電話をみつめていて、その黒い肌を照らす携帯の光はなんて美しいんだろうと僕は見詰めていた。そんな自分を背後から見ている視線を感じて振り向くと、仕事が出来ない新人の中年男の失敗を執拗に注意するやはり同じ日本人の中年男、自由劇場の性格俳優、笹野高史そっくりの男が立っていた。機械を中心とするオートメーションの工場で、まるで機械のように働いているというのに人間たちはやはり機械などではなく実に愛嬌があり醜くエロティックで、そして時に悪意たっぷりの顔をする者たちだった。


このような者たちが機械ごとにいくつかのグループに別れて作業が行われる。たとえば大きな牛肉の固まりをスライスする機械があり、その薄い肉片はベルトコンベアに落ちて移動する。それを一枚一枚とってビニール袋に入れ、決まった枚数が入ったら横の台に置く、そこにはそのビニール袋を真空パックするためのビニールをプレスする係の者がいて、作業を手際良く行い、またその横には真空パックを箱詰めする補助的な仕事をする人間がいるという具合だ。その作業の要所、たとえば肉切りやパック作りを行う者と補助的な作業を行う者の関係は中国人の場合は夫と妻であったり、男とその恋人であったりするのだが、その前近代的な関係性は過酷な労働をより過酷にするようで、横にいるだけで疲れていくものだった。
工場では、このような集団の労働が機械毎に行われ、ファミリーレストラン向けの肉料理やスープなどが大量に作られパック詰めされていくのだった。


そしてサウンドである。
機械毎に機械に合わせた集団の労働が同時に行われている工場内に、かなりの音量で音楽が流れているのだ。
流れていたのはJ-POP。
若い音楽家たちが同年代の人間に向けて作った、恋の素晴らしさを唄い、人を励まし、陽気に踊らせる音楽が続けざま流されていくのである。
巨大な牛肉をスライスしていく機械の動きに「君の瞳の輝き」を歌う唄声が同調し、ベルトコンベアの肉片とともに「明日からまた歩き出していこうよ」の言葉が移動していき、いつ失敗するのかと執拗に監視している笹野高史に似た男の頭上に子供じみた反抗のラップのライム、常に何かに怒っている顔をしている中国人の夫と従順なその妻の作業に稚拙な打ち込みのリズムが鳴り響く。そして全体として、このJ-POPのサウンドは食品工場の集団作業にぴったりなのだ。


J-POPは最低の音楽だ。僕はその時、心底感じ取ったのだった。
僕は音楽を愛しているから、様々な音楽を聴く。だから今の若い音楽家たちが作ったポップスもよく聴くし好きな曲もある。
その素晴らしさについて、友人や恋人と話したい曲を数曲あげることもできる。
だがJ-POP全体は最低の音楽だ。
それはあの酷い工場労働にぴったりのサウンドだったことによって証明された。


僕はロックが学校の教室で話題になるようなことが稀な時代に、はっぴいえんどはちみつぱいなど、今のJ-POPの原点となるようなバンドに出会い、それを愛してきた世代なので、「J-POPは最低の音楽だ」と認めることはとても哀しいことだった。
哀しくて哀しくて、僕を執拗に監視する笹野高史をその場で殴りつけ、いつも片隅で静かに働いているアフリカの女の子の手を引いて、工場から脱出したいと思った。しかし、そんな時に流れてくるが、この音楽なのだ。
メイナード・ファーガソンの「ロッキーのテーマ」


これをどう解釈したらいいのだろうか。多分、工場でずっと流していた音楽は有線だと思うのだが、ずっとJ-POPを流していた放送が、ある時間になると決まって「ロッキーのテーマ」になるのである。
午前中であれば9時、10時、11時、12時。
工場で働く僕たちは、そのサウンドを聞くと、「ああ、やっと一時間たった、昼飯まであと二時間だな」などと思うのである。僕だけじゃない、中国人もフィリピンもアフリカも、あの笹野高史もそう思っていたはずだ。
なんという残酷な音楽構成だろう。人生に失敗し貧しく惨めな男が、再起をかけ、もう一度希望をもち力強く生きていこうとする、そんな映画に流れる音楽を「ああ、やっと一時間たった、昼飯まであと二時間だな」と思わせるように聴かせる、その手口。
もし「悪魔のDJ」というものが、この世に存在するとしたら、この音楽の選曲はそいつが行ったものだろう。しかし、そんなDJはいやしない。それが悪魔ではなく人間が実際に行ったのだという事実に僕は恐ろしくなる。
僕はその残酷さに押しつぶされ、あの男を殴り倒すことも、アフリカの娘との恋もあきらめてしまう。惨めに屈してしまう。そしてJ-POPへの憎しみだけが僕の身のうちに燃え上がるのだった。


そうだ、あの音楽の話もしておこう。
オートメーションの機械のリズムに妙にシンクロしているJ-POPの連なりの中で、何故か3時間に1回くらいかかる、特異な曲があった。「千の風になって」である。僕が工場で働いていたその時期は、まだその曲のヒットが残り火のようにあった季節だったので流していたのだろう、「がんばれ、がんばれ」の歌詞やせわしないリズムの音楽の連なりの中で「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」という言葉をゆったりと唄いあげる音楽は、やはり異質なものとしてあった。
この歌は大ヒットしたにも関わらず批判する人が多い。大手広告代理店で働いた者は呪われてもしょうがないと僕は思っているので、批判が多いのもなんとなくわかるのだが、あの食品工場の労働をしながら聴く「千の風になって」は素晴らしかった。
J-POP全体の最終メッセージが「元気に働け」なのだと、単調で疲弊していく労働の中で肉感として納得し、それが疲労とともに入り込み、それに屈しようとするその時に天上から下りてくる「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」という死者の歌声は実に甘美なのである。
元気に働かされる今この時の国、この向こう側、彼方にある死者の国は、実に美しかった。午後遅い時間、疲れていればいるほどそれは美しかった……。


しかし、それは夢だ。教会の礼拝は日曜だけだ。音楽は終わる。
そしてまたJ-POPのサウンドがけたたましく鳴り響く。
巨大な牛肉をスライスしていく機械の動きに「君の瞳の輝き」の唄声が同調し、ベルトコンベアの肉片とともに「明日からまた歩き出していこうよ」の言葉が移動し、いつ失敗するのかと執拗に監視している男の頭上に、子供じみたラップのライム、常に何かを怒っている中国人の夫と従順なその妻の作業に打ち込みの稚拙なリズムが鳴り響く、この騒々しいJ-POPの生産現場