ホットなボリス・ヴィアン!

ホットなボリス・ヴィアン! そして黒人音楽都市パリ     〜鈴木孝弥インタビュー〜

『うたかたの日々』や『北京の秋』などを書いたフランスの作家ボリス・ヴィアン(1920-1959)。彼がジャズを愛し、自らトランペットを演奏、またレコードに付いている「解説/紹介原稿」をたくさん書いていたことは、よく知られている。
こうしたライナーノーツ原稿を集めたのが『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。その本を訳した鈴木孝弥さんのお話を聞いてきた。
彼はレゲエ専門の音楽ライター。たとえば、雑誌「ミュージック・マガジン」を開くと、孝弥さんがアルバム・レヴューのレゲエ・コーナーを担当している。
しかし、なぜレゲエ専門のライターがフランス語の本を訳しているのか? その理由が興味深い。ヴィアンと関連しているのだ。

● 黒人音楽の出力都市、パリ


ーーーなぜ、レゲエライターがフランス語を? 

■鈴木孝弥(以下、孝弥)  パリがレゲエの一大拠点になっているからです。
僕は1989年から94年までタワーレコードの渋谷店で仕事をしていました。昼間はジャズのバイヤーやって、夜に「レゲエ・マガジン」などの原稿を書いたりしているという生活です。
それから同時にフランス映画も好きでよく見てたんですね。時は渋谷系の時代、ピチカート・ファイヴ小西康陽さんやサバービアの橋本徹さんが、音楽とともにフランス映画を多数紹介していました。僕はそのちょっと前からフランス映画にはまっていました。
で、海外旅行にでもと思った時、フランスに行こうと決めたのです。それで91年にパリに行きました。
そしてパリに着いて驚いた。町貼りのポスターを見ると、東京に来ないレゲエ・ミュージシャンがいっぱい来ているんですよ!
ジャマイカの大スター、バーニング・スピアーとか、イエローマンとか、アイジャーマンとか、コートジボワール出身のレゲエ歌手アルファ・ブロンディとかが頻繁に来ていることがわかったんです。


ーーーなんでそんなにいっぱい?

■孝弥 レゲエはヨーロッパ大陸の各都市で人気があり、一度上陸してしまえば、地続きだからバスで回れる。ボブ・マーリーの言う〈バビロン・バイ・バス〉ですが(笑)、どう回っても、そのツアー順路の交差点となる都市がパリなのです。
そしてうれしいことに、僕が好きなルーツレゲエのミュージシャンがパリに多く来ていた。
ジャマイカ本国でも最近はルーツレゲエ・スタイルが回帰してきていますが、当時バーニング・スピアーのような古典的なレゲエは、いわば年配向けの懐メロ扱いでした。若者の流行はダンスホールスタイルが圧倒的に主流でしたから。でもフランスでは現在に至るまで、常にルーツレゲエが主流です。
その理由はいくつかありますが、重要なことは、フランスには旧植民地諸国だったアフリカから移り住んだ黒人たちが多くいるということ。この国に住んで搾取され、余所者扱いされてきた黒人たちが、ルーツレゲエに心情を託せるんですね。ルーツレゲエの基本精神はアフリカ回帰。在フランスのブラック・ディアスポラがジャマイカのそれに共鳴している構図です。つまりフランスは、ルーツレゲエのミュージシャンにとってダイレクトでピュアなリスナーが確実にいる場所なのです。そして、この音楽のよさが白人たちにも理解されて、今ではファンは白人の方が多いくらいです。


ーーーパリが、レゲエ・ネットワークの大きな拠点であることを発見した孝弥さんはどうしたのですか?

■孝弥 いろいろ知りたいことがあり過ぎて、1週間くらいのヴァカンス滞在ではとても足りない。短い滞在では、レゲエも見たいライヴに当たらないし。それで3回旅行した3回目のパリで、だめだ、こりゃ、住まなきゃいけないな、と決心しました。それでタワーレコードを辞めて94年の秋にパリに行きました。フランスは大学の学費が無料なので、長く滞在するためにも、それから滞在許可証のためにも、大学に入ることは不可欠だった。それで、必死にフランス語を勉強してパリ第3大学に入れてもらいました。とにかくそこに入るまでが、わが人生で一番勉強した時期ですね(笑)。それでなんとか、都合4年近くパリにいることができました。


ーーーそれでレゲエのライターがフランス語ができるようになったんだ。
■孝弥 パリ滞在中はけっこうライブに行ったし、セーヌに浮かべた船で行うサウンドシステムにもよくいった。ジャズは特に好きなのがモダンジャズの昔の演奏なので、ライブよりもむしろパリの専門のラジオ放送局を楽しんでました。
レコードを買うなら、レゲエもジャズもはっきりいって東京の方がいい。東京は世界中からレコードが集まってくる場所だし、バイヤーも世界で最高の目利きが集まってるところですからね。
しかしですね、パリは音楽に対する愛情が半端じゃないです。ものすごく深い愛情を傾けている都市だということが住んでつくづくわかりました。
実はパリがレゲエの拠点となっている最大の理由は、その昔、アメリカで住みにくくなった黒人ミュージシャンを暖かく迎えたという歴史的背景があることではないかと考えます。
それを踏まえて専門の音楽を流す放送局やメディアがあり、その一部がレゲエに特化して愛情を傾けているわけです。
そして、戦後のパリで黒人ミュージシャンを暖かく迎えた人間たちの中心人物の一人が、ボリス・ヴィアンなのです。


●ジャズに向うボリス・ヴィアンのホットな言葉


ーーーボリス・ヴィアンのジャズに関する原稿の特徴は?

■孝弥 雑誌原稿の場合は、ひと言で言って、かなりけんか腰ですね。「ジャズにはかっこいいもの、じゃないものがあり、また本物、偽物がある。お前ら本当にそれがわかるのか?」と読者に向う。そういったスタイルです。
アメリカのジャーナリズムもけちょんけちょんに批判します。特に人種差別をするような奴らには容赦なかった。自分が愛するミュージシャンが黒人ゆえに仕事がなく、ものすごい芸術家なのに、それ相応の扱いをうけていないこと。そういうことにものすごく怒っています。
黒人ミュージシャンにとって、そんな音楽ライターがいるパリは特別な場所だったんじゃないかな。行けばフランスのファンが大歓びで迎えてくれる。曲はよく知っているし、レコードも真剣に聴いてくれている。
それで住み着いてしまった人もいる。バド・パウエルなんかはその中でも有名な一人ですね。あと、50年代の初め、マイルス・デイヴィスは、「1年12ヶ月のうち、8ヶ月はパリにいたい」なんてことをいっていました。
アメリカのジャズメンを暖かく迎え、やりたいことをしっかり理解し、コンサートをオーガナイズし、アメリカのレコード会社がつくらないなら、フランス録音・原盤で出す。フランスがそんなアメリカのジャズに対する重要なサポート国になっていった過程で、ボリス・ヴィアンが果たした役割は非常に大きいのです。そうした土壌があって、映画「死刑台のエレベーター」の音楽のマイルスの録音が、「危険な関係」のアート・ブレイキーの映画音楽がある。これは彼らを暖かく迎えてくれたパリのジャズ文化へのお返しみたいなもんですよ。


ーーー音楽を制作する側にいたヴィアンのライナーノートの原稿は、どんな具合ですか? 売り物に付く解説/紹介の文章ですからね。

■孝弥 そこが面白いんです。商品を売る立場にいて、またレコード会社からギャラをもらっているにも関わらず迎合していないんですよ。
ただし雑誌の原稿のようには直接的ではありません。だけど、わかる人にはわかる書き方をして、彼がダメだと思う音楽は批判しています。
ボリス・ヴィアンの文章の魅力は、小説も含めて、なんともいえない捩じれ方にあると思います。単にひねくれているのではなくて、お尻がむずむずと痒くなるような捩じれ。それはひとりよがりや、わからない奴にはわからなくてもいいんだぜという不親切に感じる時もあるんだけど、その捩じれの奥にある彼の真意が感じられたときにニヤリとしてしまう。
つまり、ライナーノートの原稿に関して言えば、たとえ厳密な審美眼と強烈な好ききらいがあるヴィアンであっても、売り物に印刷される宣伝文ですから、表現としては皮肉や反語法にまみれた、捩じれてよじれたものにならざるを得ないことが多々あるわけです。そんな中で確立されていった彼のテクストのスタイルを楽しめるのが、この『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』なのです。


ーーー翻訳が難しそうですね?

■孝弥 レコードバイヤーとしてAからZまでジャズは一応聴いていますから、ヴィアンが好きな音楽、嫌いなものはわかります。しかし表現の真意がどうしてもわからない時はフランス人の知り合いに聞きます。しかしフランス人でもわからなかったりする(笑)。
褒めてるか、けなしているのかよくわからない文章というのは、ヴィアンだけの問題ではなくてフランス人の言葉のセンスの問題というところもある。どっちともとれる言葉を日本では「玉虫色」とかいってネガティブに評価してしまいがちだけれど、彼らはどっちつかずの表現自体に慣れていて、それが修辞法として練られた表現であるなら積極的にOKしてしまい、その不明瞭さを味わうようなところがある。


●ヴィアンの奇妙な文体とアドリブ


ーーーヴィアンの小説の中に出てくる、独特のわかりにくさはどう思います?

■孝弥 あのわからない文章ができた理由のひとつが、ジャズのアドリブ技法にある、と考えると理解しやすいと思います。
スイングジャズは彼も好きだったけれど、あれはむしろダンスのための、いわば社交性、娯楽性に重点が置かれた音楽でした。白人社会の社交場でジュークボックスと化するだけのジャズに満足できなくなり、「あんな演奏は飽きたよ。オレたちはもっと芸術性を追求したいんだ」といって黒人ミュージシャンたちが産み出したのがビーバップのスタイルであり、それがハードバップに変化していきます。いずれにせよポイントはアドリブです。白人がつくったミュージカルの曲でもなんでもいいからもってきて、そのテーマ(主旋律)を頭とお尻において、その間の部分は全員好きなように順番にアドリブを展開させ、感覚の独自性をアピールする。つまり、そのアドリブ・プレイを彼は小説にも導入したと考えるとしっくりくると思います。


ーーーたとえば『うたかたの日々』の主人公たちが遊びにいくスケートリンク場で、奇妙な言葉が連なっていくところはアドリブ的ですね。女性スケーターが「大鷲のポーズ」を決めることによって、卵を産み落とし、その卵が割れ、殻を拾い集めに、日本語では「お小姓清掃隊」と訳されたフランス語の古語を使って呼ばれている集団がやってくる言葉の流れとか。

■孝弥 スケートリンクというテーマを提示して、ミュージシャンがソロをとるように自由なイメージで書いていく。イメージや展開の仕方が少々飛躍しても、スケートリンクというところに着地できればいいという感じでしょうね。
同じ方法論で文体の自由を追求したのがアメリカのビートジェネレーションの作家たちでした。彼らも黒人のジャズを愛し、その演奏のように詩や小説を書こうとした。ジャック・ケラワックがトイレットペーパーのような長い巻紙を使って延々と原稿を書いていたというのは、延々と取り続けるソロのアドリブのようにずーっと意識が途切れず書き続けるためでしょう。


ーーー孝弥さんも音楽ライターとして、ボリス・ヴィアンを意識してますか?

■孝弥 近づきたいという気持はある。ライターには、新しく生まれた音楽を世の中に紹介するのが仕事というスタンスの人がいます。それもわかるのだけれど、ただの宣伝マンになっていく可能性がある。特にアーティストのインタビューを多くすると、仕事は増えて生活は楽になるだろうけど危険です。向こうがいいたいことを拾っていくうちに宣伝マンになっちまう。
僕は「あんたが勝手に作ったものは、こちらも勝手に評価する」という立場に立ちたいので、インタビューはあまりしないことにしています。
アーティストとして世の中に音楽を出したんだから、人から何を言われてもいいと思うんです。だから俺も勝手に書く。鈴木孝弥として書いて、それは雑誌社に買ってもらう原稿だから、アーティストに何といわれてもかまいません。ぼくは好きなことを書くことしかやりたくないし、それで文章を買ってもらえなくなったらこの仕事は辞めます。


ーーーボリス・ヴィアンみたいに、強烈な審美眼があり、文体がある音楽ライターって、日本にいますか?

■孝弥 「ミュージック・マガジン」でいえば、ジャズ批評の松尾史朗さん。彼はヴィアンを彷彿とさせるくらい強烈な皮肉を書きますね。それから歌謡曲/Jポップ担当の保母大三郎さん。厳しい審美眼と独自の文体をもっている人です。


ーーーヴィアンは59年に亡くなってしまうのだけど。そのことについてどう思います?

■孝弥 ジャズでいうとビーバップとハードバップまで彼は見られたということです。残念なことにフリージャズを見ることができなかった。聴かせたかったですね〜。
勝手なことをいわせてもらうなら、あと20年生きたなら、レゲエをボリス・ヴィアンは絶対好きになったと思う。レゲエもジャズも根底にはブラック・ディアスポラの問題があって、それが音楽を通して出ていく。そのプロセスは同じです。そこをボリス・ヴィアンはしっかり見れる人だと思う。
偏狭で無理解の白人どもに黒人ミュージシャンが食い物にされることを許せなかったヴィアンは、フランスにいるのだけど、ジャズファンとして海の向こうからアメリカの差別主義に対して徹底的に怒った。そんなことができる人は、音楽が変化しても、黒人音楽の構造をしっかりと見れる人だと思います。


●出力都市、もうひとつの物語


ーーーここで話を変えて、孝弥さんが『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』と(09〜10年の)同時期に出した翻訳書『ジャズ・ミュージシャン 3つの願い』(パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター ブルース・インターアクションズ)について話を聞かせて下さい。

■孝弥 翻訳といっても内容は、60年代のジャズメンを撮影した写真集プラス・アンケートという体裁の本です。写真を撮ったパノニカは、イギリスの財閥ロスチャイルド家に生まれた女性で、そもそもジャズ好きな人でした。戦前、彼女はフランス人男爵と結婚してフランスで子供をつくり、戦時中はレジスタンス運動を行ったりしています。戦後は大使夫人になったのだけど、その暮らしがつまらなくなり、男爵と離婚し、50年代の半ばに単身ニューヨークに渡ってしまう。そしてヴィアンが黒人音楽家を擁護したように、彼女も自分の大好きなジャズ・ミュージシャンたちを助けるわけです。なんてたってロスチャイルド家の人だから金はある。ミュージシャンのパトロンになったり金を貸したり、住むところがない人には超一流ホテルのスイートを提供したりする。そこで夜な夜なセッションが始まり、ホテルからうるさいといわれて「出ていけ」といわれたら3倍の金をだして、演奏を続けさせるような人です。またレコード会社やクラブとの契約でトラブルが起きた場合、彼女は乗り込んでいって黒人ミュージシャン側に立って解決していった。
そんな彼女を多くの黒人ミュージシャンが慕った。彼女にいろんな人が曲をプレゼントしています。たとえばソニー・クラークはズバリ「Nica」という曲を。ジジ・グライスは「Nica's Tempo」、ケニー・ドゥリューなら「Blues for Nica」、ホレス・シルヴァーは「Nica's Dream」とか、まだまだあります。
そんな風に、パノニカと彼らはものすごい友情関係になっていくわけです。また、彼女はアーティストでもあり、ずっと写真も撮っていましたが、そこでも彼らジャズ・ミュージシャンを最新型のポラロイド写真で撮影しました。
当時のレコードジャケットとか見ると、よくわかるのだけど、黒人ミュージシャンは白人に舐められないようにと、ぴしっとスーツで決めていますよね。
しかし、パノニカの前ではくつろいでいた。そんな彼らの生の表情が記録されています。そして、ここが面白いのですが、パノニカはポラロイドを撮影する際に「もしあなたの願いが、3つかなうとしたら何を願う?」と一人ずつ聞いていた。
この本には、その、300人くらいのミュージシャンの写真と、彼らの「3つの願い」が集められているわけです。
「家族とすこやかに暮らしたい」、「仕事が欲しい」、「人種差別がない社会」……いろいろな願いが書かれています。


ーーーいい本だなあ〜。60年代に出版されたものですか?

■孝弥 それが違うんです。ここにドラマがある(笑)! 彼女は写真とテクストをまとめて70年代に出版社に持ち込みます。
しかし、いかんせんジャズは大きく変わっていた。彼女がつきあったのはビーバップ、ハードバップ期の人たちでした。その後、新印象派というのが出てきて、ハービー・ハンコックウェイン・ショーターとかが登場、フリージャズ後にはエレクトリックが導入され、フュージョンも出てくる。
戦後からハードバップ期までの動きと、そこから70年に入るまでの音楽スタイルの変化のスピードは全然ちがった。さらにライヴァルのロック音楽が台頭してくれば、ジャズ自体内部に、新しい音楽として復権するための自己改革が加速するわけです。パノニカがその本を売り込んだときはもうそんな時代に入っていましたから、ニューヨークの出版社の人間は、ここに登場している人たちは素晴らしいアーティストであることは理解しているのだけど、ネタとしては古くて「売れない」と判断し、出版を拒否するのです。
彼女は88年に亡くなります。それから次のドラマが始まる。パノニカはフランスに子供を残していて、その子孫が「私たちのおばさんの念願だった本を出そう」と動きだす。しかし、今度はあのロスチャイルド家が「出してくれるな」と圧力をかけたのです。要するに、彼らにしてみれば、パノニカはロスチャイルド一族のはねかえり娘で、アメリカで黒人にいれあげた恥ずべき女、ってことだったんでしょうね。それで、またも計画が頓挫してしまった。
やっと本が出るのは、パノニカが死んでから約20年後、2006年のことです。フランスの出版社が出しました。その本を手に入れて感動したので、訳したのです。


ーーーアメリカではでなくて、やはりフランスなんですね。

■孝弥 フランスでの刊行を受けて、あとからアメリカで英語版が出版されました。でも最初は、フランス人のパノニカの孫娘が編纂し、フランスの出版社から出たフランス語版です。要するに、これもボリス・ヴィアンのジャズ・テクストのように、フランスが出口となったアメリカのジャズの記録、というわけです。


ーーーアメリカで生まれた黒人音楽にも関わらず、そこでは自由に表現できず、出力するところとして、フランス、パリがあったこと。その出力環境は今でもあるということ、そしてこの環境をつくりあげた一人としてボリス・ヴィアンがいるんですね。
興味深い話でした。
鈴木孝弥さん、ありがとうございました。

*鈴木孝弥さんのブログ
http://www.3cha40otoko-dico.blogspot.com/

*出版予定
『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ? 〜ジャズ・エピソード傑作選』(ブリュノ・コストゥマル著・鈴木孝弥訳)
うから(エディシオン うから)より2011年11月中旬発売予定。