ポップ場で労働するミュージシャンの「ばらつき」

母親の体調の変化もあり、最近は東京の実家にけっこういっている。家ではテレビをまったく見ないのだが、東京の家だと少し見てしまう。MTVのような番組。映像の演出でおもしろいと思うものもあるが、やはりバンドの映像的魅力は、こんな奴がこのバンドのメンバーになっている!という「ばらつき」の身体的表現だろう。たとえばヒップホップを行う黒人バンドに一人だけ将来 ラビにでもなりそうなひ弱なユダヤ系青年が入っていたりする魅力。日本のバンドも「どうしてこんなにソフィスケートされたメンバーに一人だけ獰猛な奴が」といった「ばらつき」に目がいってしまう。

こんな文章を読んだ。
「ポップ場で労働するミュージシャンのハビトゥス(自己の社会関係と自分の実践行為をむすびつけるもの==引用者註)には幅広いばらつきがある。おまけに、アヴァンギャルド芸術とは対照的に、覇権的なメインストリームのなかでも、オルタナティヴな運動や対抗文化的な運動のなかでも、同様にこのようなばらつきに出くわすことになる。どちらの場合にもミュージシャンはサバービアからゲットーに至る幅広い社会的出身地から参入してくるのだ。これらの音楽制作者は場合によっては人種やジャンルによって仕切り分けられるであろうし、別の場合には融和するだろう。しかし、彼ら音楽制作者は常に可能性群を生成する。これは、可能性群がハビトゥスの相違と、その相違が場のなかの位置に抑揚をつけることから産まれるためである」(『ポピュラー音楽をつくる』ジェイソン・トインビー 安田昌弘訳 みすず書房


MTVなどの映像では、人種や身体の形や大きさの「ばらつき」はよく見えるのだが、そういうものではない「ミュージシャンのハビトゥス」の「ばらつき」を映像として見ることができるのだろうか。自分のことを振り返ってみると、私たちはけっこうきめ細かく見ているのかもしれない。あたりまえのことだけど人はさまざまにばらついており、それは表現されてしまうものなのだ。そのきめ細かい「ばらつき」の見方が、逆にMTVなどの映像の文法を規定しているのかもしれない。バンドのメンバーの「ばらつき」を見てしまう視線は、その他、どんなところに影響を与えているのだろうか。