beach hut tour 01

7月30日
海の家を巡るbeach hut tourを開始した。


逗子の花火大会の喧噪をくぐりぬけて、葉山へ行った。
一色海岸のバス停で降りると、ひっそりとした夜の街だ。食堂の脇を入っていくと、自分が小さな頃の夏の夜の一本道がそこにある。
家族一同テレビを見るのに部屋を暗くしたのは、その頃は映像物語がまだ映画館と分かちがたく結びついていたからだ。暗がりの茶の間で母も父も兄も私も下着姿で、ワンピースを着た姉だけが取り澄まし、家族一緒に小さなテレヴィジョンのブラウン管を見つめていた。見ていたのは「宇宙家族ロビンソン」。宇宙の片隅の惑星に漂着したアメリカ人家族の物語だった。私たち家族はその日もなんとなく寂しい気分でいたはずだ。それは一週間前、飼っていた猫を捨てていたから。
どうして突然そうなったのか? 大家に何かいわれたのか。もしかしてノミが大発生し、私の体がひどい状態になったせいか、自分が関係しているかもしれぬのに、そのことさえよくわからないほど、私は幼い子供だった。
猫を捨ててきたのは、小学校高学年の兄だ。家から歩いて15分のところにある駅前の天祖神社に捨ててきたという。ブラウン管の中で、家族同様の扱いを受けていたロボットが故障をする。また憂鬱になる。ロボットの腕が垂れ下っただけなのに。窓ガラスや扉は開け放たれており、ごちゃごちゃとした住宅街の路地をすりぬけてきた夏の夜の風が部屋の中に流れ込む。
その時だった。窓の外からか細い鳴き声が聞こえたのは。チーコの声だった。家族みんなが口々にその名を呼んで家から飛び出した。庭ではもうすでにランニング姿の兄がずいぶんか細くなった猫を抱いていた。みんながそれを取り囲み、もう捨てることなどできないといったようなことをそれぞれ口にする。
チーコを中心にした私たち家族は暗がりの中にいた。街だというのに昭和30年代のそれは田舎の闇だまりのように深く黒かった。私たちが宇宙家族のようだった。


葉山の一本道である。進んでいくと公園がある。その空間は路上よりもっと暗いので足元によく気をつかって歩かなければいけない。と思った瞬間、そんなことなど気にしてもしょうがないと観念させられるような音が闇の奥から轟く。波の音だ。繰り返し繰り返し、その音がする度に、暗がりの公園にいる自分の真正面に大きな夜の海が少しずつ見えてくる。


砂浜に降りてみると海の家はひっそりとしていた。逗子の花火大会を見に人々は出かけていて、遠くにドーンという音しか聞こえぬこの一色海岸の海の家にはほとんど客がきていないのだ。暗がりの中に子供がいた、外国人がいた、女も、そして友が待っていた。昨年は葉山の海の家には顔を出していなかったから積もる話もあった。


その日は映像関連の仕事をしている夫婦の家に泊まった。仕事の話をした。ここ10年で映像の世界は様変わりをしたようだ。闇の中の家族一同でみつめたブラウン管の光は、もうほんとうに消滅してしまったのだ。
コンピュータの世界は自分が関わる出版の業態を変えていったが、映像業界の方が決定的に変化したのかもしれない。最近、映像関係者に多く会っているが、そこでの人々の暮らしの流動のありさまにはとてつもないところがある。技術者やその家族の心情は、見知らぬ惑星に漂着した宇宙家族のようだろう。 


私が海の家に興味をもったのにはいくつかの理由があるのだけど、その一つが高度成長期に働いていた男性の労働者たちを中心とするその家族のレクリエーション・スペースであった海の家が、今、脱産業化社会の中で、男女労働者やその家族、あるいは労働の拒否者によって読みかえられ、新たな意味をもったスペースになったということだ。そのようなスペースを私は「ニュースタイル海の家」と呼んだ。


私の父は高度成長期のサラリーマンであったが、ある時(たぶん自分がついていた上司が派閥抗争で負けた時)から、仕事に対して見切りをつけ、その時代ではまだめずらしかった「家族サービス」を自分の生き方の中心にした人だった。その現れとして父は必ず定時に帰宅しており、それも味噌汁をこの時間で母があたためていればちょうどよい温かさになった時には食卓についているという徹底ぶりであった(……私が大人になって仕事をしだし、定時に帰ってしまう仕事仲間がどのような目で見られるのかを知った時、定時帰宅を何十年も続けてきた父の孤独を深く感じたのであったが…)。
父は高度成長期の労働者ではあったが、同時にソフィスケートされた労働拒否者だった。しかし1980年代になるまで、乞食になるのではなく博打にうつつをぬかすのでもなく、芸事に熱中するのでもなく、労働拒否者になることはとても難しいことであった。「家族サービス」という、昭和30ー40年代に輝きをもった言葉を、ある勢力は、労働力の再生のために必要な基盤である家庭の安定化のために、ある勢力は労働者階級の豊かな社会が遠い未来ではなく、今ここにも実現できることを教えるために使ったかもしれないが、父のようなソフィスケートされた労働拒否者は、「家族サービス」というその「家族」や「サービス」という言葉のうちに、労働とその対価で関係できる世界とのつきあい方ではない、無償の関係性を見出していたのではないかと最近になって私は思っている。


こうした父の生き方のおかげで、私は海の家を含めて、遊園地、映画館、家族一同で餃子をつくるために集まるちゃぶ台など、当時のレクリエーション空間というものの質感をよく知っている。
それは第二次世界大戦によって徹底的に破壊された社会、その廃墟の中から社会を構築しようとする人間たちの力動と、同時にいつだって人間が抱えている性愛の自律した運動のずれや同調から生まれる、あの時代ならではの空間の質感だった。
そして今は、社会がさまざまな理由から瓦解していっていくその動きと、同時にいつだって人が抱えている性愛の自律した運動、そしてその横にある、癌細胞のように自律し進展・増殖していくコンピュータの運動との、それぞれが同調しズレていくありさまだ。その質感は、ニュースタイル海の家にも満ち満ちており、今日そこで話した私たちの会話も影響を強く受けていたはずだ。


映像産業労働者の夫婦の家は静かな家で、静かな夜を過ごすことができた。しかし、うまく眠ることはできなかった。


明日は和歌山の新和歌浦というとても興味深い地域のbagusという海の家に行く。