シュヴァンクマイエル展店員日記(3)

8/31(金曜日)火水木と休んで、本日、売り子となる。
シュヴァンクマイエル展の物販、主なものを紹介しておこう。


●DVDでは、
『アリス』、『短篇集』、『ファウスト』、『オテサーネク』、『悦楽共犯者』など。
●書籍では、
『図録』、『人間椅子』、『夜想2マイナス』、『オテサーネク』、『シュヴァンクマイエルの世界』、『シュヴァンクマイエルの博物館』など。
●ポストカードは
『オテサーネク』『人間椅子』や『不思議な国のアリス』など。
●後は、ジークレーというデジタルリトグラフで行なった原画の高精度複製画など。


このあたりがオープニングから今週中旬までのラインナップ。中旬以降から進化して、シュヴァンクマイエル関連だけでなく、チェコもの増えております。
たとえば『ひなぎく』のDVDや、ブルースインターアクションズから出版されている『チェコAtoZ』、クリムト人形アニメのバッチなど。
クリムトの監督作品『落下』のポストカードもあり。つまりチェコ系カルチャーショップになりつつある。


本日は、お客様と話す機会あまりなく、事情あまりわからず。客足は好調。女性客と男性客の比率、8:2くらい。一見すると美術学校系と服飾デザイン学校系女子が多い。本日はゴスロリ組、少なくなっている。


図録売り上げ好調。
シュヴァンクマエイエルを特集した『夜想2マイナス』も着実に売れている。読者が確実にいる雑誌だ。10代の子たちの何パーセントは必ずオカルトものに興味をもち、その層の何パーセントは必ず雑誌『ムー』の読者になるように、若者たちの何パーセントは必ずこのような美学に陥り、その層の何パーセントが『夜想』に向かうという感触。それにしても、人の心を掴むキャッチーな編集技術はすごい。たとえば、写真選びの的確さなど、シュヴァンクマイエルの実際の作品に隣接し、DVD映像が流れ、他の著作も置かれているこの売り場にいるとよくわかる。また、シュヴァンクマイエル展開催のニュース入手するやいなや、改訂版発売決定する編集部の早技、さすがであった。


9/2(日曜日)かなりの入場者数である。mixiなどで、この展覧会の話は盛り上がっており、そのような口コミが広がり反映している印象。客層は先週の日曜日とは若干違う。自己表現が服装に直接表れていない感じの子が少し多くなってきている。また、さまざまな文化領域を越境している感じの子がちらほらいる。たとえばヤンキー風のカップルで彼女が『悦楽共犯者』のDVDを買う時の彼氏の「こいつは変わったものがすきなんだ」という独特な許容のまなざし。図録の作品写真を見ながら話をしているカップルの会話に耳をすますと、それはアヴァンギャルドな漫才のようであり、サドマゾをモチーフにして作品の感想をいいあい、二人は言葉でただただ戯れている。お洒落な姿をした可愛い顔をした男の子に声をかけるとその子は東大生であり、田中純の授業でシュヴァンクマイエルを知ったという。ライター/編集者の河上進氏来てくれる。話をしたかったが、忙しく、ゆっくり話ことができなかった残念。


自分は理論だてて語る人間ではなく無意識にいろいろなことをしてしまうタイプ。ここ数日、思わずしてしまうこと引き寄せていることがある。その要因は、この展覧会に来ている女性たちのことだ。この人たちは、エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーの作品がもっている女性性の問題とどう出会っているのかが気になっているのだ。その女性性の問題とは何か。うまく言葉にできぬ。なので、こんなことを引き寄せ、行為している。


先日のことである。テレビで夕方のニュースを見ていると奇妙なドキュメントに遭遇する。
テレビジョンに民家が映る。カメラが入っていくとものすごいゴミの山だ。ここには30前後の女性が住んでおり、ナレーションによれば、夜毎、ラップ音や奇怪な声に悩まされているという。一応ニュース番組なので怪談番組のような大げさな作りではない。母親は彼女が中学生の時に亡くなっており、ゴミの山の部屋にはその母親のものがたくさん残されているという。その部屋は1階にあり、2階はその女性と友人が住んでいる部屋がある。その2階の部屋は非常にきれいなのだ。テレビ局の人間が下の部屋にカメラとマイクを設置し、泊まりがけで記録を行なう。


夜。ラップ音が鳴り響く。人の声らしきものも確かにする。カウンセラーや音に関する専門家のコメントが映像として続く。科学的な立場にたったコメント。そのコメントの意向に沿って、業者をやとって掃除が行なわれる。亡くなった母親がしまっていた女性の少女時代の服などが出てくる。押し入れからはネズミが出た! 映像的にはこの部分盛り上がるように編集されていたので、ラップ音や人の声は、このネズミが原因であった、ということで終わるのかと思った。先のコメントも、その伏線と考えれば、ニュース番組としてはまとまりがよい。だが、終わらない。掃除が終わったきれいな部屋。その夜。やはりラップ音はし、人の声らしきものは聞こえるのである。


映像は切り替わる。どこかで見覚えのある夕方のニュース番組アナウンサー。「まだ不思議な音は続いているのですね」と語り、そしてCMの映像に切り替わり、その他のコメントもなく番組は通常通り続いていってしまったのだった。


なんだか釈然とせずスイッチを切った。奇妙だったのは父親のことがまったく語られなかったことである。亡くなった母親のことだけが語られ、そして30前後の女性は、友人の女性と2階の部屋に住んでいるのだ。そしてゴミの山から発掘されたのは少女時代の服装であった。


日にちは変わる。ある大型書店の前を通ったので、文庫本を買おうとしていたことを思い出す。鶴見俊輔の文庫本を読もうとしていたのだ。最近、出版社数社の編集者にインタビューをした際に、数人の人から鶴見俊輔の名前が出たのだった。そのインタビュー記事のテーマとは関わりがない部分ではあったので書くことはなかったが、自分にとっては大切な箇所に出てきた名前であった。今多く読まれているエッセイやこのblogというものの根底には鶴見俊輔がいるのではないかという気がして、彼の本をそれもいつも気軽に読めるように文庫本で手に入れようと思ったのだ。だが、興味をもてる本がない。鶴見俊輔という人は、まとまった本として読むより、雑誌や新聞のある部分として読むのがやはりいいのかと考え、じゃあ、何を読もうと何気なく江藤淳の本を手にする。『成熟と喪失』(講談社文芸文庫)。手に入れ裏の珈琲屋で読み出す。次のような文章に出会う。
「ある意味では女であることを嫌悪する感情は、あらゆる近代産業社会に生きる女性に普遍的な感情だともいえる。(略)彼女の人格の核にはひどく脆弱なものがある。それは多分、あまりに急激に変化する社会のなかで、そしておそらくあまり急激に向上した生活水準の中で『成熟』する余裕を奪われた女性に生じる自己崩壊のあらわれである」