韓国/PURI/横浜/トリエンナーレ

11月に来日する韓国のバンド、PURIのコンサート用パンフレットを製作することになった。
サムルノリの後を次ぐ強力なパーカッションバンドとして、確か2000年の来日時に私は見ているのですが、その後メンバーチェンジが行なわれ、現在、かなり斬新な音楽を志向するバンド、リズム隊にドラムンベースのベースラインやパンソリの歌声、モダンジャズのイディオムが入り込んだキーボードがからむ独自の音楽を演奏するバンドになっている。


今、机の上には『仮面劇とマダン劇』(梁民基、久保覚編 晶文社)に『伝統と現代1981年7月号 朝鮮と民衆文化特集』などが置かれている。この2冊のタイトルを読んだだけで、さまざまな記憶が蘇ってくる人はけっこういるのではないでしょうか。


昨日は、一緒に編集を行なうIさんを家に呼んで、韓国民衆音楽のリズムの話を聞いた。「神明」というトランス状態についての考察。メンバーのインタビューを踏まえて、どうパンフレットで表現するのか。レイヴの経験が必要になってくる気配濃厚。ついにきたのか。最終シーズンのスケジュールチェック。


横浜トリエンナーレの内覧会にいってきた。
今、話題の本『下流社会』(三浦展 光文社新書)がいっている
低収入、偏差値が低い、上昇志向がない人間が楽しむにはぴったりの
貧乏くさく(それなりの金額は動いているにしても)、ベタで、オーラのないアーティストばかりで、私はなんだか楽しめた。


しかし、様々な国の人の表現を見ることができるこの展覧会で思うのは
あの本でいわれている「下流社会」のさまざまな特質が社会階層的なものではなく
アジア的な暮らしぶりの表現としてあるのではないかということだ。
ヨーロッパ近代社会の中で生きるアジア人がかなり自覚をもって意識的に生きれば、「下流社会」的な生活をするのではないかな。なんだか大雑把で、きっと偏差値の低い感想なのですが。
タイや台湾、中国、日本の作家たちの中の何人かの表現には、そういったことを思わせる思考の断片が存在していた。


みかんぐみと組んで「ラジオ局屋台」をしている大榎淳と一緒に会期中に、最低1回はラジオをする予定。葉山から画家Dか詩人Oを連れて、なんかしようかなと、両者にはまったく連絡せず勝手に考えております。
なんかトリエンナーレでラジオアクテヴィズム系でやりたいアイデアもっていたら連絡下さい。