*『下流社会』から『モンゴ』ヘ

三浦展の『下流社会』(光文社新書)が気になるのは、1980年代後半から現在までの私の興味、「汽車住宅」(第二次大戦後に出現した乗り物を使用した転用住宅)や「海の家」というスペースの中にある問題と関わっているからだろう。


「汽車住宅」や「海の家」を通して、私はさまざまなことを見てきたけれど、一番大きなことは「社会的な停滞の中で人はどう生きてきたのか、生きているのか、どのような可能性があるのか」ということだ。


三浦のようなパルコ系マーケッタ−が、階層集団というものをベタに語ってしまうほど、社会が停滞している状況は、少年時代から「生きる意欲」が足らなかった自分のような人間には、とてもうれしいけれど、環境に影響されて心まで滞ってしまうことは嫌だ。


かつては多くの人がもっていた上昇志向は、心の滞りをなくし、さまざまな欲望を活性化させ、自分や他者との関係性を流動化させたけれど、もうここまできたら、上昇志向は、先の選挙の「刺客」とネーミングされた人を代表とする女性たちのような人たちしかもてないだろう。


では、どうするのか? 心に動きをもたせ、人々と流動しながら生きていくにはどうしたらいいんだろう? 
権力の占有によって得る利益を常に未来に求める上昇志向に対抗して、過去へ過去への「下降志向」という方法もあるだろう。常に未来を志向する大都市であればあるほど、現在と過去との幅には濃密な質感が現れ、その下降志向は、私たちの心を激しく揺さぶるはずだ。

なんてことをいうのは『モンゴ』(テッド・ボサ著 宇佐和通訳 筑摩書房)という本を読んだからだ。


因に、今日の東京新聞の読書欄で、私、この『モンゴ』の書評を書いています。本日10月2日、このblogを読んでくれている人がいたら、駅の売店などで新聞を買って読んでみてください。


この本はニューヨークでゴミを拾う人たちの生態を記録したものなのだ。常に未来を追いかけ、どんどん過去を捨てていく大都市ですから、ゴミも半端ではないし、拾う人も相当すごい人たちだ。この個性派の連中を「モンゴ」という。
捨てられたコンピュータのハードディスクから消し忘れたファイルを読み込む「プライバシーコレクター」。健康食品専門店裏のゴミ捨て場からトーフなどの自然食品を取り出し食べる者たち、彼らもうひとつの顔はグローバリズムに反対する過激な「アナーキスト」。ニューヨークの埋め立て地の土の移動・運搬情報をキャッチし、土砂の中から独立戦争時代のボタンやメダルをみつけだす「トレジャーハンター」も登場する。


こうしたモンゴたちの中から「ディラー」と呼ばれている男が拾うものをよく見てみよう。彼は午前3時のセントラルパークのアッパーイーストサイドのゴミ置き場から本や雑誌を拾う。しかし、ただの本や雑誌ではない。ジェームス・ジョイスの初版本((1922年のパリで印刷されたもの)や演劇専門誌『プレイビルズ』(バーバラ・ストライザンドのコンサート特集)などを、めざとくみつけ、古本屋で高く売りつけ暮らしているのだ。


このあたり、大都市ニューヨークが打ち捨ててきた「過去」の豊かさが出ていて、すごく面白い。


私は読書という行為が気になっている者なので、古本好きの人のblogを多く読ませてもらっていますが、せどり行脚やブックオフ売買に関してはよく見るが、モンゴ系の古本好きにはまだあっていない。



案外多いのは、ブックオフ売買に関する記述。
多量の文庫本の売買、あらかじめ本の価値付けを禁止された店員の買い取り行為、従来の古本屋の買い取り場面では必ず生じた失望や不満の欠如、ほとんど知らない本がないと思わせる書名の数々……このような記述を読んでいると、ブックオフが扱っているのは古本ではなく、「終わりなき日常本」なのだということがひしひしと感じられてくるのだが……。


都市は上昇志向をかき立てると同時に、下降志向を活性化させる場所でもある。古本屋やアンティークショップは上昇する知識人たちや金持ちの場であると同時に、下降する人間たちの拠点だ。このあたりの拠点を上手に使って、心を流動化させていたい。とブックオフ話を読みながら、いつも思う。


『モンゴ』という本、『下流社会』と合わせて読むと面白いです。
下流社会」を突き詰めていった人たちがたくさん登場する、少々危険で魅力的な本なのです。