「パーク・ライフ&ビーチ・ライフ」 -1-

 『パーク・ライフ』という本を読んでいるうちに、自分はどんなふうに一色海岸に入っていくのか考えてみた。
 この本の「ぼく」がこんなふうに印象的な歩き方で日比谷公園に入っていったからだ。


「なるべく俯いて歩くことにしている。遠くのものを見ないようにしながら、心字池を囲む雑木林の小路を足下だけ見つめて進み、イチョウ並木、小音楽堂を抜けて大噴水広場に入る」
「噴水を囲むベンチの一つにゆったりと座る。このときすぐに顔を上げてはいけない。まずネクタイをゆるめ、地下鉄の売店で買ってきた缶コーヒーを一口だけ舐める。顔を上げる直前に、数秒だけ目を閉じたほうがいい。ゆっくりと深呼吸をし、あとは一気に顔を上げて目を見開く。カッと目を開けば、近景、中景、遠景をなす、大噴水、深遠の樹々、帝国ホテルが、とつぜん遠近を乱して反転し、一気に視界に飛び込んでくる。狭い地下道になれた目には少し酷だが、頭の芯がクラクラして軽いトランス状態を味わえる。なぜかしら、涙が込み上げることもある」

 
 ポイントは、公園の近景、中景、遠景が、とつぜん遠近を乱して反転し、一気に視界に飛び込んでくるところ。
 
 
 私が一色海岸に入っていく仕方はどうだろう。葉山御用邸の角を曲がり、イタゴヤという小さなサーフショップの前を通り、大門酒店の横の道に入っていく。そこから海岸に繋がっていく路地になるのだが、私はどんなふうに人が集う海辺に入り込んでいくのだろう。
 

パーク・ライフ』では、「ぼく」が地下鉄でふとしたことで声をかけてしまった「スタバ女」(スターバックスカップを持っていた女性だからだ)と日比谷公園で過ごす時間がさらりと描かれる。そこでの「ぼく」や彼女の身振りや交わす言葉を中心に、さまざまな記憶、景色、出来事がそれこそ遠近や順番を乱して書かれていく。といっても、前衛小説のような衝撃的で唐突な乱れではない。あくまでも自然で何気ない乱れだ。

 
 人はみな景色を見ていると、たとえば公園の「波紋の広がる池、苔生した石垣、樹木、花、飛行機雲、それらすべてが視界に入っている状態」になったりすると、実はその光景は何も見ておらず、何か他のこと、たとえば記憶の光景を見たりしてしまうと作者の吉田修一は書く。
 
 
「ぼく」は、公園の風景を見ながら同時に、好きになった女の子と初めてキスをしたこと、けれど少し悲しい形でキスをしたことを思い描いてしまう。そして「こうやってぼんやりした状態からふと我に返るとき、ときどき戦慄のようなものが走る」と「ぼく」は思う。なぜなら、「いま自分が見ていたもの、記憶のような、空想のような、どこかあいまいで、いわばプライベートな場所を、通りすがりの人に盗み見られたような気がする」からだ。
 
 
 そんな「ぼく」にスタバ女はいう。
「大丈夫よ。あなたが見てるものなんて、こっちからは見えないから」と。

 
 ここがポイントではないかな。見ることを楽しむには、自分が見ているものが、誰にも見えないという安心感が保障されていること。公園、そしてもっと広く、都市とはそんな場所だったはずだ。

 
 一色海岸に繋がっていく路地には、小さな鉢植えを幾つも家の前に置いてある家がある。ていねいに慎ましく育てられている植物。木を焦がしたような壁の日本家屋。その家があるせいか静かな路地は自分がひとまわり小さくなったような視界を作る。先を歩くせっかちだった父親の背中が見えたりする。そう、路地を見ながらも、昭和30年代の道を見たりしているわけだ。しばらく歩くと白いワイシャツの男の背中は消えていってクロマツが生えている公園が見えてくる。その向こうに海が広がる。

 
 一色海岸が好きなのは、浜辺までのアプローチが「落ち着いている」ところだ。「ようこそ○○海岸へ!」などという看板が立っていたり、なんだか気持ちが騒々しくなる駐車場がなく、静かな住宅街の細い道を通って海へ近づいているところが好きだ。

 
 今年オープンした神奈川県立近代美術館・葉山館の横の細い道を通って海岸に出ていく方法もある。お屋敷の壁に囲まれた細く長く続く暗い小道。2年前の夏、中年のカップルが歩いていた。上方からのしかかってくる竹の葉の影が揺れる壁に挟まれた道を歩くカップルの姿を見ていると、この人達は不倫だなと思ったりした。東京から来た連れに後で話すと、その人もそう思ったという。そんな細い道をゆったり辿っていくと、突然前方に青い海が開ける。
 初めてこの海岸に来る人にそんな案内をして歓ばせることもあるし、出るとすぐに海の家ブルームーンがあったりして便利なのだが、ちょっと自分が海岸に入っていく気分とは違う。劇的すぎるのだ。

 
 『パーク・ライフ』の作家ではないが、近景、記憶の景色、遠景をほどよく混ぜながら海辺へ出ていきたい。
   
 
 とそんなことをいっても、クロマツが生えている公園の高台に立つともうだめだ。自分の前方に広がる海を見てしまう。青い遠景ばかり見てしまう。

 
 砂浜にもってきたシートを敷いて、服を脱いでひと泳ぎする。沖を見ながら平泳ぎをしたりする。海面でごろりとあおむけになる。大空を見ながらしばらく浮かぶ。泳いでいるときもこうしているときも思い出す光景などない。

 
 沖から頭だけ出して浜辺の方を見る。うねる海の中に自分もうねりながら浜辺に建つ海の家を見る。ブルームーン、海小屋……。よくいく店が初めて上陸する島の民家のように建っている。その遠景にどきどきする。ガバッと陸に向かって泳いでいく。濡れた体のまま、そのままに店に入っていく。

 
「スタバ女」はスターバックスが嫌いだという。それは「あの店にいると、私がどんどん集まってくるような気がする」からだ。どんな自分なのかといえば「別に何したあわけでもないのだけど、いつの間にか、あそこのコーヒーの味が判る女になって」いた自分だ。

 
 都市で「何かが判る」ということは、即、あるパターンの人に見られることになってしまう。視線の劇がすぐに成立してしまう場所だからどうしようもない。さらに都市ではいろいろな事物がほとんど商品だから、自分が好きで見ているもの、味わって見ているものが、誰にも見えないという安心感が保障されていない。だからとてもつらい。つらいからスターバックスが嫌いになったり、あるいは店でコーヒーを飲んでいたとしても「ぼく」が観察するように、誰もが「店の外へ目を向け」なくなったり、「『私を見ないで』という雰囲気をからだから発散させて」しまうようになってしまうのだ。

 
 喫茶店、電車、そして公園などのおもしろさは、自分にとって興味ある人間を演劇を見るようにじっくり見られるところだ。さらに、あの人間はどんな人なんだろう勝手に想像することも楽しい。映画『マンハッタン』でウッデイ・アレンが目の前を通り過ぎる公園で歩く人たちに勝手にコメントを加えて恋人を歓ばせるシーンがあったが、都市の楽しさはやっぱりこれにつきるねといいたかったのだろう。

 
 都市で暮らす中で一番面白いこと、視線の劇。それを、この小説では抑圧してしまう場所としてスターバックスというカフェがある。うねる言葉の中に自分もうねりながら都市に建つ店が見えてくる。よくいく店が初めて行く場所の初めてのカフェのように建っている。

 
 濡れた体で、その海の家に入っていく。海の家で、平日昼間コーヒーを海を見ながら飲む楽しさがわかるようになったら、やはりあるパターンの人に見られるだろうか。葉山に住んでいる遊び人あるいは海辺の街に家を買った若い夫婦……、まあ、パターンに見られるのだろうな。そこらへんは都市と変わらないはずだ。だが、海の家にいる人は、あるパターンに見られるとしても、「私がどんどん集まってくるようだ」と感じる自己嫌悪に陥らないし、外を見ることをやめたり、自分を見ないで、ということにはならないのだろう。

 
 やはり浜辺という場所は、人が集うといっても、都市の喫茶店や電車の中、公園といったような場所と違って視線の交錯が濃密ではない。どうしても視線は海の遠景へいってしまうし、想像のドラマを発生させやすい服、持ち物などのアイテムの種類が少ない状態はどうしても視線を人に向かわせない、また裸に近いからだは、実はものすごいドラマを拡げやすいものにも関わらず、なぜかどうしても言葉でうまくすくいきれないようなところがある。こんな理由があってニュースタイル海の家にあるアイテム(音楽、テーブルの飾り、飲み物、サービスの笑顔……その他)は、都市のカフェとほとんど同じなのに、濃厚な視線の劇は回避されてしまう。

 
 昔の海辺で都会の人は海に入って体をときほぐしたけれど、今では視線のうねりの微妙な変化でこころをときほぐしたりもする。