「パーク・ライフ&ビーチ・ライフ」-2-

 
 一色海岸の海の家にいる。椅子に座って海を見る。それから、隣のテーブルにいる黒い水着の女の人を見ている。とても魅力的なからだをもった人なのだ。あっ、向こうにおもしろいタトゥーをした若い男がいる。でも女の人を見てしまう。

 
 夏の海辺で水着の女性を見ていつも思うことは、グラビア写真の女性のからだと、それはまったく違うということ。写真の女性のからだのようにセクシーな人はあまりいないということもあるし(ガッカリ)、実際に浜辺でセクシーな人の醸し出す性的な魅力は、定型の身振りを演じる写真の女性のセクシーさとはまったく違う。また、からだの魅力は、性的な魅力ばかりではない。さまざまな魅力が無数にある。
(以下、異性愛者の男性の立場からの言葉が少し続きます。ちょっとごめんなさい)

 
 たとえば、今、私はその女の人のからだに肌の膜一枚が足らない脆弱さを感じている。なんか変な言葉だな、もう少し説明すると、その肌は表皮の一番上の膜一枚が自分の肌より足らない感じなので、そんな肌は彼女をとりまく世界から彼女に押し寄せてくるもろもろの物事を自分よりも直接的に且つ微細に受けとめそうだと感じるのだ。だから、しんどい時はけっこうつらいのではないかと思い、それが彼女に対して少し愛くるしい気持ちにさせてしまう。というと、やはり性的な共感をしているのか……いや、そうではない魅力を感じているのだけど……。

 
 先に私は「裸に近いからだは、実はものすごいドラマを拡げやすいものにも関わらず、なぜかどうしても言葉でうまくすくいきれないようなところがある」(11/14のメモ1です)と書いたが、そのことを乗り越えられれば、私たちの海の家でも、もっとおもしろい視線の劇が展開されていくのだが……やはり難しい。


パーク・ライフ』という小説でも、やはり、からだの扱いが難しいものとして描かれている。


 だいたい「ぼく」と「スタバ女」との地下鉄の出会いから、からだのイメージがまとわりついている。地下鉄の窓の向こうに見える日本臓器移植ネットワークの広告の「死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意思です」というコピーに「ぼく」が思わず反応して、一緒にいると思っていた人にその感想を話しかけると、まったく知らない彼女がそこにいたというシチュエーションなのだ。

 
 からだにまつわるちぐはぐな印象が、最初から強調されている。

 
 それを冒頭にこの小説には、バランスを欠いた肉体のイメージがいくつも続いて出てくる。ペニスと脊髄が尿道で繋がっているような間違った描き方をしているレオナルド・ダヴィンチの「人体解剖図」、アンテーク屋に置かれた内臓がからっぽの感じがする不良品の「人体模型」、音を消すと「なぜかしら、からだだけが不当な被害を受けているように」見える「ニュースステーション」の映像……。

 
 人体解剖図、人体模型、ニュース番組……ここで示されるのは視覚優位の肉体把握の方法だ。その方法で扱われるからだのちぐはぐな感じ。そういえば最初の出会いが行われる地下鉄という場所も次のように示されていた。
「日比谷交差点の地下には、三つの路線が走っている。この辺りの一帯を、たとえば有楽町マリオンビルを誕生日ケーキの上飾りに譬え、上空から鋭いナイフで真っ二つに切ったとすると、スポンジ部分には地下鉄の駅や通路がまるで蟻の巣のように張り巡らされているに違いない。地上のデコレーションが派手でも、中身がすかすかのケーキなどあまりありがたいものではない」
 ここで提示された地下鉄のイメージも、都市の断面図という視覚的認識にまさに味気なく切り取られたものだった。

 
 都市の最高のおもしろさは視線の劇が展開できることだが、その視覚が優位すぎると、どうしてもからだは「不当な被害を受けているよう」な扱いをされてしまう。

 
 海の家のいる人々の裸に近いからだを、もっと楽しくとらえる視線の劇が欲しいと先に書いたが、視線の劇が展開され過ぎると、からだはどこかつまらない形になってしまうのだろうか。

 
パーク・ライフ』がいう視覚の場所=都市でのからだのつまらなさ、情けなさはなんとなくわかる気がする。

 
 私もこの浜辺で、そのつまらなさ、情けなさを感じているような気がする。ちょっと思い出してみよう。

 
 ここ数年浜辺で見ることが多くなってきたタトゥー。それを肌に入れた人を見て思うのは、タトゥーの入ったからだが視覚的に「立ち上がってこない」印象だ。アニメのキャラクターを含めさまざまな視覚的なサインが夥しく散在するこの世界で、痛みを伴うからだ自体を使った視覚サインであるタトゥーは圧倒的な優位を手に入れるべきはずなのに、他のサインの中に埋もれてしまっている。こうした状態、あるいはとうに視覚ドラマの展開をあきらめているプチ・タトゥーなどを見ると、私はそのタトゥーをしているからだのある情けなさと、からだをあつかう文化の混乱を強く感じるのだった。

 
 タトゥーを扱う雑誌を見ても私はものすごく混乱しているものを感じる。からだをあまり視覚的にとらえない文化の中にあるからだの表面にこそ、タトゥーは視覚的な輝きを放つのではないかな。それとも映像文化的な視覚と違った視覚文化の中でこそ、タトゥーは妖しく色めくのだといってもいいんじゃないか。そこを抑えていないで、入墨を映像文化のキャラクターのように扱ってしまっているようだ。

 
 海の家で入墨をした若者たちがたむろす姿は、きっと美しい光景だ。しかしそれは目で見る美しさではない、もうちょっと違った美しさだ。

 
 そんな美しさを見る視線を獲得できないものか。たとえば私たちの海の家では、どうしても遠景の海へと視線はひかれていく。そのような自然へのまなざしと同じようなあり方で人のからだを見ることができないだろうか。

 
 実は『パーク・ライフ』には、そのような視線への試みが隠されている。スタバ女と日比谷公園で会っている期間、「ぼく」は知り合いの夫婦、宇田川夫妻のマンションで留守番をしている設定になっている。どうして留守番をしているのかというと、その夫婦は別居をしていて、おたがいその家から出ていってしまい、そこで飼っていた猿のめんどうをみなければならないからだ。


 その猿の名前はラガーフェルド。この小説では「たしかFENDICHANELのデザイナーにカール・ラガーフェルドという人がいたはずだ。宇田川夫妻は自分たちの愛猿に『ファッション界の独裁者』と異名をとる彼の名前をつけたのかもしれない」とその由来が説明される。

 
 確かにカール・ラガーフェルドはそのようなデザイナーであるのだが、もうひとつの顔をもっている。男性ヌードを撮る写真家としての顔だ。この小説では、その顔が隠されている。

 
 写真家ラガーフェルドには、安藤忠雄の建築をとった写真集などもあるが、彼にとって大切なテーマは自然環境の中にあるからだだ。『ESCAPE FROM CIRCUMUSTANCES』はそれがよくわかる写真集で、自然の景色がざーんと写っているモノクロの写真をよく見ると、若い裸の男が植物などに混じっているというもの。写真自体はスコーンと決まっているものではないけれど、「パーク・ライフ&ビーチ・ライフ」のテーマを考えるうえでとても興味ある写真ということになる。

 
 花や樹木のようにからだを見る視線。それは素敵だ。このような視線でからだに近づけば、からだは不当な被害を受けているような扱いはされないだろう。しかし、それは……。

 
パーク・ライフ』の猿ラガーフェルドは、たいてい酷く扱われる(カワイソウ)。別居した夫婦はどちらも面倒を見ない。着替えをとりに久しぶりに戻ってきた奥さんの「瑞穂さん」の「肩にのぼろうとしたのが、『乾いてからにしてよ』と邪険に払われて」しまうし、「ぼく」の母親からは酷く嫌われ「冷蔵庫の取っ手に繋いで台所に隔離」されてしまう。そういうなかで、「ぼく」だけがラガーフェルドをお風呂などに入れてやって甲斐がいしく面倒をみているのだ。

 
 この作家の思想はここにあると思う。視線が交錯する都市、その視線でどうしてもからだがひどい酷い扱いをされている都市で、花や樹木のようにからだを見る視線を黙々と養うこと。

 
 だが、それは決して肯定されることではない。なぜなら、人のからだには「あなたが見てるものなんて、こっちからは見えない」ものが内包されており、その人だけの記憶やその人だけの恋心をそのからだは織り成しているからだ。唯一そのことがあるという理由によって、人は都市でからだを花や樹木のように見てはいけないのだ。

 
 そのことを示すように、この日比谷公園には印象的な人物が登場する。ビデオカメラのついた小さな気球を浮かべて公園全体を俯瞰してみようとしている男だ。この男は「ちょうどぼくがラガーフェルドを抱くように、赤い気球を腕に抱えて」いる。
 
 
 ただしこの男の試み、気球を飛ばして上昇していく視点から公園を見ていくことは小説の中では実際に行われない。酔っぱらった「ぼく」が夜の公園で見る夢として、この試みは行われるだけだ。それは夢の中だけでやっていい「独裁者」ラガーフェルドの視線。その上昇する視線から見られた映像を、作者は公園全体がひとつのからだに見えるものとして書く。それは1930〜40年代のドイツあたりにあった映画のように美しいものだろう。

 
 その後、この小説は都市のからだ論、視覚論を背景にして、うまい形で物語の終わりを練り上げていくのだが、その説明はここでは書かない。

 
 今、私が考えなければいけないことは、吉田修一が都市で黙々と飼っていた可哀想な猿ラガーフェルドを、この海辺に連れてきて、私たちの海の家でどのように飼うか。ということだろう。

 
 ニュースタイル海の家にあるからだは、ほんとんど都市のからだと変わらない。だからこそ、花や樹木のようにからだを見る視線を望んだりする。しかし、そこが海辺であることによって、都市のカフェとは違って、そのからだは、時々、花や樹木のようなからだだったりする。これが危険なんだな。しかし魅力的でもある。猿のラガーフェルドは狂ったように歓ぶだろう。

 
 これを危険な魅力としてどう楽しむか。飼いならしていくのか。90年代のヌード写真を基本にした身体論とは違ったからだに関する考えが出てくるかもしれない。公園と海辺を上手につなげながらね。写真ではない、場所。だからだから、もう少し一色海岸のこの海の家にいて、その人のからだを感じてみようと思うのだ。