竹という素材について

 まず「ニュースタイル海の家」について説明しておこう。

 
 いきなりだが、イメージを20XX年のTOKYOにしていただきたい。近未来モノによくあるパターン、地球温暖化でこの都市の大部分は水没している。たとえば渋谷、外苑あたりは海の下になっており、なぜか明治神宮と原宿あたりが残っているという設定である(ワンパターンである……)。裏原宿のスタッフたち自らの手で改装したカフェ、アンティックショップ……それが水辺に立ち並んでいる光景。思い浮かべていただけただろうか。それが今、湘南の夏の浜辺に出現してきたニュースタイル海の家の姿といっていい。


 60年代のあの大群衆が集っていた海水浴場の海の家とも、80年代に多くあった飲料メーカーなどがタイアップしていた騒々しい海の家とも違うもの。くつろぎの空間と音楽やフライヤーなど友愛のための道具が集められている新たな海の家だ。
 90年代、私たちの都市ではカフェという新たな喫茶空間が登場した。この空間を経験した者たちによって再発見され、自分たちのための空間として再デザイン化されたのが、ニュースタイル海の家ということになる。
 

 このような海の家のメッカとなるのは三浦半島の葉山にある海岸。森戸海岸のオアシス、御用邸の裏手にあたる一色海岸のブルームーン、海小屋などが代表となろう。
 その海の家には、くつろぎと友愛のためのスペースとともに、もうひとつの特徴がある。それは裏原宿と同じようにセルフビルドで作られているということだ。
 

 その建設作業のスタート地点は葉山の奥にある山林。高さ10メーター以上もある孟宗竹が、何百本も生えている竹林だ。
 

 毎年5月の末になるとニュースタイル海の家の建設は、このような場所からスタートする。オアシスの場合ならダンスホールスタイル・レゲエの流れが色濃い青年たち、ブルームーンなら帰国子女によるボーダーレスカルチャーと、エコロジー志向を背景にした都会的青年たちが集まり、建築資材となる竹を刈り、約1ケ月かけて自分たちの手で7月の頭から営業するための建設作業が行われる。
 

 まさにセルフビルディングなのだが、しかし、そこには自らの手でログハウスを建てようとする人々の気負いはないし、「セルフビルダーの全てはある種の天才である」と建築家、石山修武がいうときに想定されている驚異的な想像力が展開されているわけでもない。
 
 
 では、どんなセルフビルドなのか?
 

 オアシスを建築する労働現場の身振りをよく観察してみよう。竹林にバラバラと入っていく足の運び、冗談をいいながらノコギリを手にする仕草、リーダー格の人間の言葉を聞く背中の曲がりなどを見ていけば、彼らの大切なことはリラックスしていることだということがわかる。この身体状態を保つのに、竹という資材はぴったりの質感をもっている。
 

 何か荷物をまとめようとする時、ヒモを使わずに絶対にガムテープを使ってしまうだろう彼らの指先にとって、竹は建築資材の中で非常に安心感を与えてくれるもののはずだ。
 

 ある一定の温度と水を与えれば、2か月ごとにタケノコをだし3か月間生長を継続する竹の旺盛な生長率、さらに葉山では海岸から車でちょっと山へ入っただけで、たくさんの竹林に出会うことができる。失敗してもとりかえしのつかないことはないし、すぐ入手できるものなのだ。また年輪がないせいか他の木材とは違って、育ってきた時間を感じさせないところがある。植物なのに大量生産の工業製品のような質感があり、彼等の指先をリラックスさせるのだ。
 

 そんな竹が高さ10メートル以上の直線のラインを描くシャープで、人工的な竹林。そこで竹を刈る若者たちの脱力した労働の身振り。アウトドア派が夢見る大いなる自然などまったく存在しないセルフビルドだ。
 

 では、建築家だからこそ夢みてしまう「ある種の天才のセルフビルド」は?
 

 オアシスは1981年に営業を開始したカウンターカルチャー的な人々が集まる海の家であった。80年代の頃はテント屋根やエスニック風二階建てなど、毎年目まぐるしくデザインが変化し建設されていたのだが、興味深いことに90年代になりカウンターカルチャー的な色彩が薄れ、より音楽的な要素が強くなってからはデザインはほとんど変化しなくなっている。リラックスするためには新たなデザインを生み出すことさえ邪魔なのだろう。
 

 あるいはオアシス・カルチャーの核となっているレゲエ・ミュージック独自の構築センスの影響かもしれない。みなが参入できるとりあえずシンプルな楽曲を作り、そこにそれぞれが大胆に音を重ねたり(その独自なレコーディングスタイル)、新たなメロディーよりも音の構造そのものを問題にしてしまう(DUB!)レゲエの構築力である。
 
 ブルームーンの場合は、田舎の人間ではなく都市人間だからこそもつ、環境に負荷を与えることに対するナイーヴな心情が、スペースデザインの冒険を抑制し、どこか生真面目なものにしている。「天才」がなす驚ろくべき表現は、環境意識などを代表するある種の倫理観によって抑圧されているのだ。
 
 切り出された竹は浜辺に運ばれ砂に穴を掘って柱として立てられる。美しい海を背景にした若者たちの建設作業。ただし、ここでも自然はただの自然ではなく、デザインはただ奔放に行われるのではない。そのことがわかっている身体だからこそ選択されたセルフビルド。
 
 ニュースタイル海の家は、このようにして建てられ、今、この夏、もうすでに浜辺に存在している。

(この原稿は『X-Knowledge HOME』2003 AUGUST Vol.19(エクスナレッジ)で発表されている)