オアシスのステージの位置の移動について(1)

オアシスは空間構成が大きく変化している。

初日ということもあり、人がものすごく多く、この空間構成がどのようなものなのかは、今はうまく語れない。しかし、ステージの位置変化のことだけは書いておきたい。
ステージがあったところがバーカウンターとなり、ステージは今まで一番地味だった元の桟敷席の場所になっていった。つまりミュージシャンは、今までの海沿いのマンションに向かう形から、海に向かって演奏する形になる。この移動は音を海側に飛ばしていき、住宅地側への音の伝達を少しでも減らすということが、もっとも大きな理由だろうが、もうひとつミュージシャンの立ち位置の変化にオアシスカルチャーが早めの駒を動かしたとも読める。

ここ数年のオアシスの空間構成は、縦長のコンサートホール型の客席、それときっちり正確に正面から対応するステージという形だった。しかし今回は横長の客席に、中心線からずれた形で、しかもキッチンと並ぶ形でステージが配置されている。まだライブは見ていないから正確な判断はできないが、観客の意識のパフォーマンスへの求心性は前のステージ位置よりは確実に薄れると思う。

そこに意味がある。

ミュージシャンが観客の前に立ちはだかり、その前でパフォーマンスを見せること、あるいは若者たちのオピニオンリーダーであることができた時代はもう過ぎ去ったと思う。
よく雑誌などでミュージシャンがアーティストとしてロングインタビューなどにエラソーに答えているのを見て、この人は建築がこれだけ語られようとしている時代をどう生きているんだろう、アホだと思っていた。

オアシスでいえば、私のHOME GROWNへの唯一の興味は、音楽を楽しめる空間を実際に作っていたバックバンドということだった。この一点で突出していたと思う。


今年の5月14日の朝日新聞夕刊に、ギタリストの窪田晴男が小さな文章を書いていた。
「なぜこのライブハウスの床はペタペタと靴に張りつくのだろう? この手の店では機材の良否を問わず、皆同様に音が悪いのも不思議だ」というところから始まり、
「若者よ、演奏を始める前に黙って周りをよく見渡すのだ。君達の音楽がフレッシュに響くどうかは、演奏前にもう決定しているかもしれないのだから」で終わる文章。さすがパール兄弟。名文であった。

「売り上げを半強制された消費者」としてのライブススポットのミュージシャンに対して、自律性を手にいれなければ「なんだか切なくなる」だけなのだと窪田は書いていた。

自律性への手段はいくつかあると思うが、空間に手をいれる方法があると思う。「エラソーな場所」から離れて、かつてのポピュラー音楽家がレストランやダンスフロアにいたような場所にまで退却することが必要なのかもしれない。今回のオアシスのステージは、そこまでは突き詰めてはいないが、志向として「食べること」や「踊ること」を支えるエネルギーとしての音楽へと向かっている気がする。

このオアシスのステージ位置の変化は、敏感なミュージシャンや文化愛好者たちにとてもよいインスピレーションを与えるものだと思う。オアシスのライブなどを体験して、この問題をもう少し考えたい。