見事に記憶に残らない大人たちがいた浜辺

20代の時に出会った年上の人で、強く惹かれた人に、斉藤次郎さんがいる。「子供」をテーマにした文章を多く書いている人で、この人と遊んでいると、「遊び」のドキドキ感、キツさが胸に染みて、なんだかすごく揺さぶられた。数回しか会ったことがなかったが、ものすごく好きになった。当時の次郎さんの仮面ライダー論などは、ほとんど生きていく指針となったほどだった。


昨日、図書館でたまたま次郎さんの本を借りて、今朝早くパラパラと読んでいた。海水浴のことが書かれてあったので、ここに少し引用しておこう。


関東平野のつきるあたりの埼玉県の田舎町(現在の飯能市)に生まれ育ったぼくが、はじめて海を見たのは六年生の夏でした。一九五一年のことです。当時はまだ家族で海水浴などというのはとんでもないぜいたくのように思われていました。

八高線やら横浜線やら、SLを乗りついで、ようやく海にたどりついたのは、昼を過ぎていたように思います。長い旅でした。ぼくたちは砂浜を波打ち際まで一気に走り、歓声をあげたはずです。見渡す限りの空と海の光景にぼくは圧倒され、噂以上に塩からい海水にびっくりしました。実は、この海の初体験をぼくたちにもたらしてくれたのは、町内会のおじさんたちだったのです。

ラジオ体操に集まる広場で、海に連れていってもらえるという耳よりな話を聞いて数日後、噂が本当になったのでした。いったいだれがどういういきさつでこの計画を立てたのか、ぼくには全くわかりません。引率してくれたおじさんたちの顔も名前も全く覚えていないのです。

いっしょに行った近所の友だちのこと、海の家で土地の大きい子におどされたこと、でもそれが冗談だとわかってほっとしたことなどは、はっきり覚えているのですが、その記憶の中におとなはひとりも登場しないのです。それは別に原体験とか原記憶とか言えるほどのものではないのですが、ぼくの内部でちょっとした疑問と結びついて保存されることになったのでした」

話は、自分がひどい近視で体が弱く、そんな自分がよくついていったこと、母親がよく許したものだといったことに触れ、また主題、そう「子ども好き」というテーマにもどっていきます。「ぼくがお伝えしたかったのは、近所の子どもを二、三〇人思い立ったように海に連れていってくれたあのおじさんたちも『子ども好き』だったんじゃないか、ということなのです」と、また書きだすのだった。


「盆踊りのことやら商店街のことやら話し合っているうちに、ふっとだれかが海水浴に行こうと言いだしたのでしょうか。『子どものために』という気張ったものではないにしても、町中の子どものほとんどが海というものをまだ知らないということに、おとなたちは気づかってくれたのです。仕事を休める人が世話人になって、ひとりふたりは面倒だと、ラジオ体操に集まる子をみんな連れて行くことになったのだろう、と僕は想像します。

そういうとき、おとなはふっと『子ども好き』になる。これが普遍性としての『子ども好き』です。『子ども好き』の人と『子ども嫌い』の人がいるというのも、間違いではないだろうけれど、まあだれでも『子ども好き』になるときがあるのではないでしょうか。そして、そんな『子ども好き』のおとなは、当の子どもたちにとっては記憶に残らないのです。ぼくがおじさんたちを覚えてないのは、それほど見事に『子ども好き』だったせいかも知れません」


ああ、そうだ。見事に子どもの記憶に残らない大人たち。これは「世界の秘密」。忘れてはいけない「神秘」。


次郎さんは、私にとっては魔法使いのような人なので、不思議な登場の仕方をしたりする。このblogで、先日、私は昭和30年代頃の粗雑な大人たちについて書いたが、それに反応したのだろうか、あのキツイ、ニヤリ顔で登場し、すぐさま「君を遊ばせてくれた見えない大人たちがいたんだぜ、それって何? その世界ってどういうこと?」などというのだ。へい、へい、単純な歴史観で世界を見てはいけないってことですよね。


それに、子どもぽい生き方をしてきたけれど、また子どもも生み育てはしなかったけれど、「君も大人としてけっこう子どもとは関わってきたんだよ。そのことも忘れてはいけないぜ」と語っている文章だった。そう、いろいろあったな。それに今年の夏は、あの九十九里浜でたくさんの子どもたちとジャンベで遊ぶイベントがあるではないか。はい、はい、次郎さん、わかりました、子どもと大人の入れ子構造を感じて、もう少し複雑な世界を生きていきます。(借りた本は芹沢俊介との共著で『この国は危ない』(雲母書房))