海辺で話す構図/海岸侵食
海辺というスペースでは様々な人々の動きが交錯し、そこで織り成されているものは、刻々と変化している。
夏とは違って、人があまりこない冬の海辺は、
都市の中心部とは桁違いのゆっくりとしたスピードで
まるでロバート・ウィルソンの演劇のように、ゆったりと変化をしていく。
と同時に海辺それ自体も刻々と複雑に変化している。
(その2つの動きを重ねて認識すること。角田純一のデザインのように)
海辺それ自体の変化で、どうしても注目せざるをえない現象が海岸侵食だ。私の家の前に広がる海岸にも海岸侵食は起こっており、そのことによって養浜(砂を入れて浜辺を作っていく工事)と人工リーフ(消波効果の目的で海中に構築物を入れる工事)を合わせた工事計画が出ている。
私はその計画に反対しているが、同時に海岸侵食によって危険な状態にある家屋や道路の安全確保も大切だと思っている。
そのため「横須賀・葉山の海を守る会」というものに参加している。
http://www.sukaumi.org/
メンバーは主に地元サーファーたちだ。その工事計画がある海は彼等が遊ぶ場所である。
その海辺は、波の状態によっては祭のような高揚感があふれる空間となるし、平常の時もサーファーたちが集い会話がなされる。
たとえば沖で波に乗っているあるサーファーを見ながら、一人の男が「あの○○が着てた赤いトレーナーは、どうしたんだろう?」という。すると隣の男が「あれはサーフショップの□□からもらったんだよ」と答える。と、その隣のあんちゃんが「□□には、うちの弟があげんだよ」とぼそりという。ああ、そうだったのと3人の男が納得した瞬間、海の向こうで話題の男がボードから大きく振り落とされたりする。
こういう会話の構図が、私は好きなのだが、このようなことは、あまり多くの人に理解されないかもしれない。ちょっと説明しますね。トレーナーという物品が小さなコミュニティの中を移動していき、その運動を言葉で描写しているその時に、波という運動がくりかえされているという構図が好きなのだ。さらに、人が転倒したり投げ飛ばされたりすることが同時に起きていると、最高に楽しくなるのだ。
たぶん、こういう運動への歓びはある種の映画批評でたくさん語られることだと思うのだが、そういうものを読んでいていつも思うのは、「映画ばかりでそういうことを語るなよ、もっと実人生のことを語ってください」ということだった(実はその意味で実人生が描写されてしまう『反日本語論』(蓮實重彦)は、好きな書物なんです)。
まあ、このような私好みの構図が展開される、地元サーファー、どちらかといえばおっつあんサーファーたちが織り成す会話の中に、そのような工事計画のことが流れてきたのが今年のことだった。
この計画の詳しいことは先のサイトを見ていただきたい。
昨日は、その計画について地元の住民、漁師、行政サイド、学者、海岸利用者たちが集まって話し合う会、「秋谷海岸(久留和地区)保全計画第2回協議会」を傍聴してきた。
第1回会議の議事録は先のサイトで見ることができる。その議事録を見ると、あまりよい会話が展開されていないので、期待せずに参加したのだが、海の動きに関するいろいろな見方が聞けてとてもためになった(この議事録も年開けには公開されるはずだ)。
海岸侵食は、主に近代になって行われてきたさまざまな公共工事や、海や河川に接する民有地の工事が原因で起こってきたわけだが、そのメカニズムは簡単なものではないし、他にも様々な要因が関係する。その複雑な海の動きを、漁師や学者、サーファー、役人たち、海に面して住む人々が語っていく会議だった。
この「さまざまな語り」が、人々の葛藤の単なる「ガス抜き」になってしまい、結局はいつもの公共工事のラインに入ってしまうことだけは避けなければならない。そう思った会議であった(第3回は来年3月になる予定)。