生け垣/ヘルツォーク&ド・ムーロン/角田純一/留守の家

 今日、一色海岸の近くの「一色そば」でごまだれそばを食べて、その後なんとくなく散歩をした。いつもは生け垣をただ生け垣として認識して歩いているのだが、今日は生け垣を植物の枝の曲がりや葉の大小でできあがる複雑な空間の層として見ていたんだ。さらに生け垣の複雑にできあがっている「穴」から時折見ることができる生け垣の中の庭や家が気になっていた。時々だが穴から見える庭や家の姿は、歩いているから流れるように見え、その手前にある緑の小さな葉の群れはやはりとても複雑な視覚のリズムを刻んでいた。その2つの映像リズムがおもしろく重なるように意識してみて歩いていく。

 
 このように生け垣とその向こうの光景を意識するのは、昨日、建築家ヘルツォーク&ド・ムーロンがデザインした建築の写真を見たからなんだろうと思う。この人たちは表参道で今年オープンして話題になった水晶のようなプラダ・ビルを設計したスイスの建築二人組です。彼等の作った建物、アメリカ・カリフォルニア州のパナ・ヴァレーの「ドミナス・ワイナリー」(ワインの製造所です)の写真を見たのだ。

 
 今から書くことは写真と文章で知ったことから書いていることなので、これは建築批評ではないことを確認して読んでくださいね。さて、その建物のファサードの表面には「蛇籠」と呼ばれる河川の土木工事などで用いる石を入れる籠が使われている。彼等はおもしろいことにワイヤーでできたその籠に、玄武岩をごろごろと入れてその状態を建物の壁にしたのだ。石は密度に変化をつけていれてあるので、とても複雑で変化のある小さな空間がそこにできていて、穴がいくつもできあがったりしている。そこから日中には光が射し込み、夜には室内の光が石と石の間から漏れていく。

 
 このような光の展開を想像したり、積まれた石の壁を写真で見る時、私たちが感じるのは、機能的な建築空間のガラスやコンクリートの層に、ごつごつした石が織りなす複雑な層が重ねられることによって、とても新鮮な表層ができあがっているだろうということだ。この建築物の表層を直に体験したいと思いつつ、そのような表層を建築ではないが、グラフィックデザインで展開しているデザイナー角田純一のことを、同時に私は考えていたんだ。

 
 角田純一は『X-Knowledge HOME』(エクスナレッジ)という雑誌でアートディレクションをしている人で、彼と編集部がこの雑誌でヴィジュアル面で展開していることは、とても素晴らしい。

 
 たとえば今年の10月号でスウェーデンの建築家エリック・グンナール・アスプルンドを特集しているが、その特集の最初の見開き(P14〜15)は、その建築家が設計した建築物と、その傍にある並木を撮影した写真(撮影=アンダース・エドストローム)を使っているわけだが、通常ヨコイチの写真1枚か2枚を使うところを4枚の写真が使われている。

 
 しかし、さっと見ると1枚にしか見えないだろうね。右から1枚目の写真の左端がコピーされたものが2枚目の写真で、映像的には建物とその前の並木の葉群れがリズム感のある感じで反復されるように接合されている。また左端の4枚目の写真の右部分が同じようにコピーされ3枚目の写真として作られ、今度はリズムを作るというよりは並木の緑のヴォリュームが作られるような形で(同時に通行人の小さな姿は反復されているのでリズム感は作られている)4枚目の写真の右端に接合されている。そしてメイン写真の切り取りコピー部分同士である3枚目と2枚目の写真は、樹木の葉の細かい流れを強調するような形で接合されているのだ。つまり4枚の写真は、緑の葉と建物のコピーによって一見すると1枚の写真のような感じに見えるように構成されている。

 
 だがそれだけではない。ここがポイントだからね。4枚の写真は、「あるリズムをもって視線がパンニングして見ていく動的な建築の映像の層」と、その前面に被せられた、「葉の大小ある形態によって複雑になっている流れ、つまり建築映像の流れとはまったく異質の流れをもった樹木の葉の群れの層」の2層の構造があるように強調され構成されているのだ。

 
 これは、ヘルツォーク&ド・ムーロンの建築と同じ構造をもっているのではないか。彼らの出世作である「シグナル・ボックス」という建築物は、建物の壁面のコンクリートとそれを囲む鋼板のルーバーが異なる物質感を出しつつ、被せるように重ねることによって、今まで見たことはない物質感のある表層を出現させたものだった。

 
 角田がこの見開きでしたことは、まず写真から2つの異なる表層を取り出したことだろう。次に一方を映画的手法/壁画的手法を意識した映像コピー技術を使ってリズムを作り、もう一方を自然の複雑なパターンを強調し、こうして2層の質感をずれさせながら、ヘルツォーク&ド・ムーロンがコンクリートと銅板を重ねるように、2つの層を被せているんじゃないかな。しかもそれはCGのような加工ではなく、あくまで前コンピュータ技術的手法によって写真の物質感を意識させつつ行われている。そのことによって、今まで体験したことがない映像を作りあげることに成功したんだ。

 
 角田が複雑な葉群れの植物を入れ込んだ写真をセレクトすることが多いのは、多分この2つの物質感の異なる層を作り出すためだろう。
 また、角田が作り出す表層の種類はこれだけではない(このことはまた次の機会に考えていく)。

 
 ということで、昨日、『建築と都市2002年2月臨時増刊 ヘルツォーク&ド・ムーロン』(エー・アンド・ユー)という本を見ながら私が思ったことは、このようなことだった。
(文章がごちゃついてますね、この本のデザイナーは角田純一さんではありませんよ)
 
 
 そしてこの本のカバーは、真下から見られた複雑な空間を織り成す葉群れをジャック・ヘルツォーク自らが撮影した写真が使われているのだった。とても素敵だ。このカバーは今年の春に発表された写真家・鈴木理策の桜の写真、やはり真下から見られ空でも桜の花んでもどこにもピントがあっていないことによって、花びらが織り成す複雑な空間が表現されている写真を思わせるものであった。

 
 自然が織り成す複雑な層を常に被せるようにすること。

 
 このような昨日の映像体験、連想があるから、今日は生け垣の複雑な空間、そしてその空間を通して見える庭や家が気になっていたのだ。

 
 こうして散歩をしながら、なんとなく画家Dの家へ。このところずっと海の家オアシスの歴史についてメール交換しているのだ。声をかけてみると誰も出てこない。留守の画家の家。小さく白い壁の。絵画のようにじっと鑑賞してしまった。