高速愛とワークショップについて

hi-ro2006-05-11

その日も、海沿いの停留所でバスで待っていると、さあーーっと、マカベさんが自転車でやってきて、「ワタナベく〜ん」といって、自転車に降りるやいなや、その瞬間、マカベさんの情愛に包まれてしまった。
いつものことなんだけど、高速愛なんだ、マカベさんの場合は。


バスが来る間のほんの少しの時間にいろいろな話をしていただいた。真壁智治は60〜70年代の日本のデザインサーヴェイ運動(共同体や建築物を実際に測量したり、スケッチしたりする中でデザインというものを考えていく実践活動)の中で最もアバンギャルドだった人で、その後の都市に対するアクションも含めて、ずっと注目していた人だった。しかし、かつて読んでいた雑誌を通して知っているだけで、自分の家の近くを高速で疾走していく自転車の怪人が、その人だと知ったのはわりあい最近のことで、話すようになったのも実に最近のことだ。


マカベさんと話していて、いつも感じるのは、侠気だ。強きをくじき弱きを助ける正義感というよりは、身内の者に何かあった時に、三千里の道を馳せ参じる衝動を常に持ち続けるクレージーラブとしての侠気。現代のCG映画では決して表現することができない、モノクロチャンバラ映画だけが現出できる疾走感を愛情として、この21世紀の何でもない街角で対面する人に表現できてしまう人なのだ。
多分このスピード感には、日本のアバンギャルドが抱えてしまうオトコ気問題、都市を愛した経験をもった者が必ず遭遇する喪失感など興味深い問題があるのだろうけれど、そんなことより、この高速愛に包まれていると「何か悪いことに陥った時に、尻はしょり紅だすきのマカベさんが、きっと オイラを助けにきてくれんだい」と思えてしまうその血煙高田馬場幻想に退行できることが嬉しい! 嬉しくて、つかの間のバス停留所の会話がもっと短くなってしまうのだった。


その日の会話は「明日は、ワークショップだからね、ワタナベくん、必ず来てよ」というマカベさんの言葉で終わった。
そして、次の日、5月7日、今行なわれている葉山芸術祭の催し物のひとつ「読書会『くうねるとこにすむところ』『家ってなんだろう』」に、私は参加したのだった。
マカベさんは現在、子供たちに伝えたい家の絵本シリーズ「くうねるところにすむところ」(インデックス・コミュニケーションズ)のプロジェクトディレクターをしている。このシリーズの特徴は、建築家たちが子供たちの目線で家についてのさまざまな事象につて語り、そして絵を描いているところだ。益子義弘、みかんぐみ、 元倉眞琴、妹島和世伊東豊雄などの建築家たちが著者になっている。


そのシリーズの第一冊目「家ってなんだろう」(益子義弘)を使っての読書会=ワークショップなのだった。この本は「木」をモチーフにして、木を育てるようにして家を育てるということを伝えている。葉山という地域で自分がどんな家に住み、どんなふうにしてその家を育てたいのか、それを知っていくための体験をここでしてみようというものだ。


ワークショップの枠組みはとてもシンプルなものだった。何も描かれていない小さな冊子と「家ってなんだろう」の本を渡されて、いくつかに分かれたテーブルに着く。テーブルごとにファシリテーターがいて、その人が中心になって本を読み、問いかけに答えるかたちで、冊子に絵を描いていく。最初の質問は「きみの『家』のイメージはどんなだろう?」
絵を描く。おととい食べた サザエのつぼ焼きと昨日読んでいた石山修武さんのテクストのイメージが重なったのだろうか、私は、海辺に置かれた巨大なサザエの貝殻の中に住むイメージで、ちょっと入り口は幻庵風にしてしまった。
そんな絵を描きながら私のテーブルのファシリテーターであるマカベさんや、横に座った写真家のブルース・オズボーン夫妻、ライターの久野さん、葉山地域のパン作り名人ハコちゃんらとぼそぼそとしゃべりながら描いていく。問いかけは続く。「きみは誰と『家』に住んでいるの?」「きみが一番好きな『家』の場所は?」「きみの『家』からなにが見えるの?」「きみの『家』の中で過ごす時間は?」「きみの『家』で一番古いものはなに?」「きみの『家』の20年後を考えてみよう」
本を少し読み、ちょっとおしゃべりして描いていく。


はまってしまった。俺、お絵描きって熱中するタイプなんだ。だんだん夢中になって、みんなはあまり色とかつけていないけれど、使える限りの色を使った。ワークショップというのは参加メンバーの経験の共有化というのが眼目なのだから、もう少しみんなと話さなければいけないなと思ったのだが、こういうのに夢中になっている自分を出していくのも、みんなを刺激することになるかもしれないなどと調子良く思って、どんどん描いてしまった。


と同時に、ワークショップということについても考えていた。実は最近、マカベさんは会う度にワークショップという言葉をよく語っているのだった。先述したようにいつも短い会話なので、深い話はまったくしない。短いセンテンスを思い出しては想像するのみだが、私はこう思った。測量という認識の方法を中心にするデザインサーヴェイの中からその最前線に出て、共同体の経験を叙述しようとする作業をしてきた人が、都市表層のフロッタージュを経て、ついに観測という領域から一歩歩み出したのだ。いや、マカベさんと会ったのは最近のことなのだから、その踏み出しは、もうとうの昔に行なわれていたのかもしれないが……。


ワークショップは経験を差し出すこと、人に経験を差し出してもらうこと。それらの経験を共有する場の枠組み、設計図、ルールを同時に参加者が協力して作り出していくことがワークショップだ(その前提に、「観測という領域」が大きく深く広がっている)。
その枠組み、設計図、ルールとして「家」は使えるものなのだ。なぜなら「家」は経験の場として作られ、そして住む者の経験とともに「生きられるもの」だから。
80年代後半、「家」をモチーフにした雑誌や本を作ろうとする編集者たちが少なからず出てきた。その流れは有名建築家列伝と狭小住宅のカタログものにいきついてしまったけれど、試みの初めには「家」を使ったワークショップが雑誌や書物の中でできる、そういった思いがあったのではないだろうか。目的は家それ自体や建築にあるのではない、大切なことは経験を差し出すこと、人に経験を差し出してもらうこと、その枠組みを手に入れることだったはずだ。そんなことも絵を描きながら思い出していた。