戦後週刊誌を支えていた「まったく字も書けないような連中」について

先日、横浜の中華街で、女性セブンや週刊ポストの編集に関わっていた方とお会いし、お話を聞くことができた。
プロ野球黒い霧事件」に関わるまるでスパイ大作戦のような話や、「芸能人相姦図」をめぐるさまざまな動きなどを知ることができた。
球界の権益を守ろうとする記者クラブなどを代表とする組織と一体化した記者たちと、週刊誌をベースにしたフリーランスの記者の闘い。スキャンダル記事とは、そうした言葉の闘いの結果としてあることをあらためて思った。


また、ある事件で非常に魅力的な立ち振る舞いをしたフリーの記者のその後について聞いたところ、出版社の社員であったその方の言葉が印象的だった。
フリーランスの記者というのは、育てられる人たちではない。また育てるということに責任をもっているわけでない。だから、彼らのその後はわからないのだ」


組織によって育てられた言葉に対する、組織によって育てられなかった言葉。
組織によって育てられなかった言葉を使う者は、社員の編集者の記憶の中で浮かびあがってくる時、それは一方で(その後有名になる)小説家であり、そして一方では「まったく字も書けないような連中」だ。まったく字も書けないような者たちは、地方の野球事情をやけに知っている者であり、あるいは「まるでゲイのように」人当たりが優しい者として活躍する。
まったく字も書けないような連中が、野球選手に近づき、ある言葉が発せられるのをひたすら待つ。まったく字も書けないような者が、作詞家にペンを持たせる(この作詞家が相姦図を自分の意志で書くように)。