地面の傾斜について

夏草が枯れると通れる山道があり、秋になってからこの山道を通ってスーパーに行き、買物をするようにしている。帰りは野菜やパスタなどをいれたバッグをしょって山道を帰ってくる。片道40分くらいの行程だろうか、うねうねとした細い道を割合早足で歩いていく。無意識でいればなんでもないことだけれど、意識すれば地面の複雑な傾斜に対して体が微妙なバランスをとっているのがわかる。


地面の傾斜について、今回の『唐桑・海と森の大工』(INAX出版)で、少し言葉にして書くことができた。船大工の岩渕棟梁がいる造船所の地面が海に向かって傾斜していることを書いたのだ。


「シルバーグレーのペンキで塗られた木製のくぐり戸を開けると、そこは緩やかな傾斜の世界だ。出来上がった船がスムーズに海面へと下りていくための角度、漁師が新しい船へと快く向かっていくための傾斜。すべての道具、すべての材料が海に向かって微妙に傾いた土地に置かれている」


地面の傾斜について意識的になったのは、朝倉喬司の犯罪に関するテクストを読んでからだと思う。朝倉はどうも犯罪者の中のある傾向の人々が土地の起伏に対して非常に敏感であると考えているようで、事件の現場の土地の傾斜や、逃走ルートの土地の高低の差などを執拗に書いていた。そんなテクストを読んだあたりから土地の起伏が気になりだしたのだ。


しかし、朝倉さんの影響だろうか(逗子駅前でときどきお会いして挨拶をする)、地面の傾斜について考えると犯罪的な気分になる。ある女の人とタクシーについての話をしていた時だ。その人が東京という都市空間を土地の起伏として克明に理解していること。そのことに驚き、とても奇妙な気持ちになったことがある。いかんいかんと思ったのである(なんだかわからないが、自分が馬鹿なだけだ)。


そんな日々も過ぎていった。海辺の街に来て、海に近い土地の起伏に敏感になっていったようだった。地面の傾きが人間の視覚認識にとってとても重要であること、そのことに意識的だった研究者ジェームズ・ギブソン。彼のアフォーダンス理論を日本語の環境の中でたいへん面白く語っている佐々木正人。その著書『レイアウトの法則』(春秋社)で佐々木は建築家の塚本由晴と対談をしている。


ここで佐々木と塚本は小屋について、こんな風に語り合っている。

佐々木■(前略)小屋というのは「スモール・アンド・グローバル・ユニット」なのだと思いました。小さいけれども、小屋での移動はいつも小屋の周囲の全体を知覚させている。小屋では内と外が共変している。
塚本■小屋というのは自分の体が大きくなったようなもの、言い換えると小屋には自分の輪郭が広がる感覚があると思います。自分が真ん中にいるという感覚を、小屋は味あわせてくれる。それは「周囲の意味を包含した運動」の痕跡といいますか、確かにそれを作った人の感覚に近づくことでもある。


海の家という小屋の中にいて、私は海辺という環境全体を知覚してきたのか。いつのまにか砂浜の傾斜が私の体の中に入っていって、私はあのルポルタージュで「海に向かう傾斜」について書くことができたのだ。他人にとってはなんでもない小さなセンテンスだろうが、私にとってはとても大きな言葉。


今よく歩いている山道の複雑な傾斜が、いつどんな言葉になっていくのか。