海小屋について

 
 一色海岸にある「海小屋」という海の家についてメモをしておこう。

 
 2001年の夏、海小屋はオープンした。
 浜辺に突如現れた、そのバーカウンターを見た時は本当に驚いた。木材で組まれた骨組みだけのバーが青い海をバックに、ぽつんと砂浜に立っていたのだ。
 そのバーの前に立つと一色海岸のいつもの景色が違ってみえた。カウンターと屋根の平行線、柱の垂直線で海の景色が四角く切り取られていた。こうすると風景が枠がないよりくっきりと見えた。
 
 
 海小屋は、浜辺に建てられたバーカウンターと、小屋そのものの厨房だけで構成されたものだった。


「厨房さえ雨風から防ぐようにできていれば、客席は、極端なことをいってしまえばどうでもいい(笑)。何より飲みながら見える景色を優先しようと考えた」
 と店主Mさんは基本的なデザインの考え方を語った。そして実際に建設したのがAさんだ。ともにブルームーンの開業時からのメンバーである。
 
 
 1997年にオープンしたブルームーンは、この浜辺で出会った人々が、メンバーの核となって作られた海の家であるという。
「みんなこのロケーションが好きだった。夜、浜辺で焚き火をしてお酒を飲んだりしていたことの延長に海の家がある。だから建物も、目立つよりも風景を生かせるものにしたいと思ってブルームーンを作り、その発展形として、このカウンターがあった」(Aさん)

 
 そのブルームーンから分かれてできたのが海小屋である。

 
 私は海の家の建物を見て美しいと思ったことはない。建築物の美しさというのは、やはり環境に対してのきっぱりとした意志を事物として見せるところから生じる。海の家の建築は、やはり小屋がもつすがすがしさや刹那さだけを醸し出す。

 
 しかし海の家を見て、今まで2回だけ建築物としての存在感を感じたことがある。その一つはオアシスの解体作業を写真で写していた時、ほととんど空間を囲い込むものがなくなっていった一瞬だ。それは夏の終わりに作業をしている人、夏の記憶でいっぱいになったスタッフたちに破壊されていることによって、小屋が確実な事物として見えたからだろう。スタッフたちのまだ夏の終わらせたくない感情とのコントラストによって、破壊を受け入れるきっぱりとした意志を思わせるものとしてその空間はあり、そのことによって、一瞬建築物になっていた。

 
 もう一つが、この海小屋の2001年夏のバーカウンターだった。

 
 広々とした海があり、それが自分がこうして飲んでいる小さなグラスを置いたバーの骨組みでフレーミングされ、違った風景に見えてしまうこと。最小限の仕掛けで大自然を相手に遊んでいる。これは茶室みたいだと思った。

 
 (借景について、フレーム、見る装置としての庭に注意すること。重森三玲などへの注意)

 
 海の家というスペースはここまできたのかと思って驚いた。砂浜にバーカウンターがあるのは、リゾート地ではよくある。しかし、「浜辺で飲む」というイメージを売るあまり、それはほとんどが「見られる空間」だ。多分こちらは、予算の少なさと「目立つよりも風景を生かせるものにしたい」という思いが合わさったからなのだろう、海小屋のバーカウンターは「見る装置と」して、美しくできあがっていた。

 
このバーカウンターを持ち運んで他の土地の風景も切り取り、そこで酒を飲んでみたいと思った。それが「LANDSCAPEBAR」という構想で、このことについては、他の機会に書いてみたい。

 
 しかし、このバーカウンターの美しさも10日ほどだった。太陽に照らされた砂浜を裸足で歩く子供たちが足の裏が熱いというので、Mさんは屋根を伸ばした。フレームのコントラストはそれで崩れた。さらに小屋づくりマニアでもあるMさんAさんは、営業しつつも少しづつ建設作業をくり返し、バーカウンターのぽつんと立っているという感じはなくなり、厨房とカウンターや点在していたテーブルーが繋がって、一体感のある和気あいあいの海の家になってしまったのだ。

 
 あ〜惜しい、惜しいなと私はいいつづけたけれど、いつのまにか子供たちが遊びまわる海の家、海小屋でガキと遊びながら自分も酒を飲むようになってしまったりするのだけど……。
 
 
 そして2年目からは(今年の夏で3年目)、三角形に組んだ木材を基本的なフレームにして立体的な空間が登場した。上に上がると相模湾を見渡すことができる展望台のような空間ができたりした。

 
 今年の夏、たしか8月の上旬だった。家から歩いて長者崎から砂浜に下りて一色海岸にいった。泳ぐといういのではなくて、ちょっと海の家で飲み物でも飲んで、そこのテーブルで思いついたことをメモでもしておこうと思ったのだ。


 コーヒーを頼んで、それからサンドイッチも頼んだ。客は私一人で店内に設えてあるテーブルでメモをとりながらコーヒーを飲んだ。Mさんは相変わらず、今度は何を作ろうかという顔で1本の柱の前に立っていた(こういう姿を客は何度も見ることになる)。妹さんもいて、その人は、アジアの都市のダウンタウンで会うことができそうな気さくな人で、なんだかうれしくなってしまう存在感の人だ。彼女はインド人と結婚しているので、その子供も遊んでいた。インド人そのものの可愛いらしさと妖艶さをもうもっている4歳くらいの女の子で、私に遊んでくれという顔をしてやってきた。その子と遊びながら食事をして、それからメモをとったりしていると、音楽が流れだした。キャンディースや吉田拓郎などの70年代のヒット曲を中国人の歌手が歌っているものだった。その中国語の唄を聞いてインドの女の子と遊んでいると、私はほとんど下川裕治であった。

 
 
 タイに日本の海の家そのものの集落があって、今度また行こうと思っている人に出会ったことがある。愛知県のある河川では、故国に帰れなくなったタイ人たちの水上生活集落があるということを教えてくれた人もいた(これはガセネタ)。そういえば10年前に取材をさせていただいた水上生活者の方たちが祀っていた神様は、異質な祀り方だった気がするが……。

 
 うわっ。いつのまにこんなことをメモしてしまっていた。

 
 あの妹さんのキャラクターのせいだろうか、それとも他の海の家に比べて子供率がすごく高いせいだろうか(小学校に行く前の子供が10人くらいほとんど裸でかけまわっていたな)。今年の夏の海小屋は、アジアの食堂にいるような日もあった。

(原稿の一部を雑誌『Memo』<ワールドフォトプレス>2002年9月号で発表しています)