旅芸人の音楽

今日は、一緒にいるDの祖母の葬式に参列した。Dの一族らしい徹底的に解体された葬式。遺体を囲んでいろんな唄を唄ってきた。ハルさんということで「春の小川」、強烈なクリスチャンがいるので賛美歌、やっぱり最後だから「螢の光」など。


この一族とはいろいろな唄を唄ってきた。戦後の東京の下町、小さな工場の経営者、働く労働者、そこに入り込んでいく社会主義、歌声運動……。いろいろな問題を抱えつつもなんだか明るい人たち、食事をしていると、唄いだしてしまう年寄りたち。


今日は私が敬愛する高齢の女性と食事をしながら話をした。結核の療養所での社会主義思想、キリスト教の信仰などの問題がその人生に大きく関わっている方だが、たまたま河内地域での療養所の話になった。あのあたりは関西のかなりディープな地域、そこでの激しい社会主義者の活動が垣間見える話。私は昔勤めていた編集プロダクションの社長が河内音頭に入れ込んでいたので、河内地域には思い入れも強い。その高齢の女性との話の中で、療養所の患者や看護婦たちが踊る河内音頭の話が出てきた。河内音頭振興隊系の方ならわかっていただけるかな、強烈な印象ですよね。


こうした一族と一緒にいると旅芸人系の音楽を思ってしまう(ものの考えを書物ではなく唄として携えて生きる人々の姿、社会に翻弄されつつも勇気や知恵を唄の形で伝えていくこと……そんなことが旅芸人の音楽を思わせるのかな)。たとえばクレズマー音楽。そこから話しは海の家系に流れる。8月25日に一色海岸の海小屋で、とても素敵な旅芸人バンド「こまっちゃクレズマ」が出演する。

私はこのblogの3月4日の日記でクレズマー音楽について次のように書いた。


「クレズマー音楽とは、それ自体はアヴァンギャルドではなく、アヴァンギャルドをかくまう音楽として徹底的に庶民的なのである。
話はずれるが、私たちが子供の頃、胸踊らせた物語には『かくまうこと』がとても大きな要素になっていった。今の漫画やアニメ、ライトノベルで『かくまうこと』は、どのように置かれているのか。また鶴見俊輔のテクストに出てくる寄席などは、社会で失敗した者がかくまわれる場所として存在していた」


唐突にいってしまうけれど、今、市民の安全な生活を守る名目で新たな試みや感性が潰されている。「かくまう」巧妙な音楽を、この夏の浜辺でさらっと巧妙に楽しく聞いてみたい。