ひぐらし忌

書評家の倉本四郎さんの一周忌「ひぐらし忌」に行ってきた。
週刊ポスト週刊現代平凡パンチ
週刊誌全盛期、喧噪の編集部で書き編集し朝まで飲んだ男たちが
今は癌になり、ある者は死にある者は生き延びた。
残った男たちが、煙草を吸い酒を飲んで笑った数時間。

末席でそんな男たちの様子を見ながら、じっくりと飲んできた。

倉本氏の思い出を昨年あるwebマガジンで発表した。
その文章を載せるので、よろしかったら。

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●「倉本四郎の穴」・渡邉裕之

 
 今年亡くなった倉本四郎さんと、私が初めてお会いしたのは、今から7年前、雑誌「アサヒグラフ」の巻末記事「わが家の夕めし」の記者として、葉山の奥にあるお宅を訪れた時だった。

 名の知れた人物とその家族の食事の様子を写真にとり、600字程度の原稿が入った1ページものの記事を作る。それが私の仕事だった。

 倉本さんの仕事、「週刊ポスト」での書評「ポスト・ブックレヴュー」は、読んだときから気になっていた。さらにライターという職業に就くようになってから、読んでいく言葉の感触に近しさを感じるようになっていた。
 
 その近しさだけで会いたいと思い、決めた取材だった。

 あの時、倉本さんの言葉の感触を確実な言葉にしていうことはできなかった。しかし今なら言葉にすることができる。それは、この職業の者だけが体験する「言葉の穴」をくぐり抜けた感触だ。
 
 「マルコヴィッチの穴」という映画がある。日本では2000年秋に公開されたスパイク・ジョンズ監督の作品である。物語は人形使いの主人公が生活のためにある会社に入社したところから始まる。ある日、彼は事務所の奥に奇妙な穴があるのを発見する。中に入っていくと、不思議なことに実在の映画俳優ジョン・マルコヴィッチ(本人が演じている)の体の中に入り込んでしまう穴なのだ。登場人物たちは、こうして有名人マルコヴィッチの体を人形使いのように動かし、マルコヴィッチの体感を体験できることに酔いしれるようになる。その快楽に溺れ奇妙な悲喜劇が展開するというストーリーだった。

 ライター、あるいは雑誌記者たちの仕事の中心は、取材し、人の言葉をとることである。方法には直接質問を投げかけ言葉をとっていくものと、誰かと話しをしてもらってとっていく方法がある。倉本さんは「ポスト・ブックレヴュー」を始める当時、対談原稿の最終的なまとめ役、アンカーの名手として業界に知られていた。

 対談原稿を書く作業は、会話をテープに録音したものを書き起こした「テープ起こし原稿」を読みながら行われる。
 このテープ起こし原稿を見ると、誰もが驚く。私もこの職業について初めてそれを見た時も、そうだった。取材の時にあれだけ「わかりやすかった」話が、紙の上に並べられた文字で見てみるとまったく文章になっていないのだ。

 話し言葉と書き言葉の違いである。たびたび現れる意味の流れの中断、無意味な言葉の突然の遮り、まったく違った話の強引な折衷、咳や笑いなどノイズさえもが思考の流れになってしまう荒唐無稽さ。
 
 しかし、このテープ起こし原稿の支離滅裂振りに目をつける者たちがいる。それがライターであり、編集者なのだ。話し言葉から書き言葉に変換される時に現れる言葉のメチャクチャ振り、それらひとつひとつをマルコヴィッチの穴と見るのだ。ライターはその人間の言葉を思い通りに操るために、その穴に入っていく。

 新聞や雑誌に載っている人の発言、その人自身が書いたもの以外、それは99%言葉の穴に入り込んだ者が内側から操作した言葉によってできている。

 倉本さんは、川上宗薫など70年代のマスコミの寵児たちの言葉の穴に入り込んだ人であり、その優れた技術者だった。そして1976年、穴潜りの技術の対象を人物ではなく、書物に向けた。それが「ポスト・ブックレビュー」だった。

 その頃はわかりにくかったろうが、今ならアーティスト森村泰昌がいるからイメージしやすいかもしれない。泰西名画に潜り込み内側から日本人の目つきで鑑賞者を見つめ返すことによって、日本人論を含む美術論を見せた森村のように、倉本四郎さんは書物に潜り込むパフォーマンスを書評の場で演じた。

 その文章には、批評家が本を値踏みするために眺める広がりも、文化人が知識を開陳するために書物を積む空間もなかった。言葉の身振りだけがあった。

 このパフォーマンスは何を示していたのか。書評の初期の頃は、人は「書物の中=読書体験の中」でならどこまでも自由であることを示すためだった。巨匠たちの書物に潜り込み内側から見せた青年の瞳は、若いライターらしく傍若無人だった。「大先生や好きな先生の作物を前にしても、人物に対して払う敬意や愛情と、作物に払う敬意や愛情とはちがうのだ」(1)といってのけて「作物」に入り込む身振りは、70年代のまだ元気な週刊誌の読者、若いサラリーマンにはとても共感ができるものだったはずだ。
 
 書評も時代も少し落ち着いてからは、パフォーマンスの意図は確かに森村泰昌に似てきた。近代的認識によって書かれ編集された書物の内側から見せるまなざしは、意図的に江戸の戯作者のようだった。さまざまな物事を軽妙洒脱に見立て今の書物の不自由さを笑うようなところがあった。
 
 それを過ぎると最終的な段階に入っていった。書物への潜り込み方ではなく、どのようにして出てくるかに主眼は置かれるようになってきた。小説に書きあげて作家になるのではなく、できあいの書物を通り抜けることによっていつのまにか作家になっているところを見せること。絶対に出られぬ箱から脱出して見せる縄抜けのマジシャンのような具合である。
 
 澁澤龍彦種村季弘が意識されていたろう。彼等はフランス語やドイツ語が日本語に変換される時に生じる穴を、こちらはテープ起こし原稿に生じている穴をマルコヴィッチの穴とした。独自の穴潜りだった。技芸は洗練を極めていった。それを見てフリーライターの自分はドキドキしていた。ライターも作家になれることを勘違いしたように歓び、そのパフォーマンスに熱い声援さえ送るような読み方までした。その声援の延長で出かけたような取材だった。

 秋の始まりの葉山のお宅でお会いした倉本さんは、ピンク色のタテ縞のシャツを胸をはだけて着ていた。なかなかの色男振りだった。有名人とその家族の食卓というテーマの1ページ記事。食事は、倉本さんのお父様が彫った木彫りのマリア像がある庭に置かれたテーブルで行われることになった。奥さんと隣に住む妹夫妻を紹介された。義弟の鍋倉孝二郎さんは懐かしい絵を描く画家だった。そして奥さんの雅枝さん、妹さんの典子さん。

 ブルーのペンキで塗られたテーブルに料理が並べられていった。パスタのアサリ白仕立て、骨つきラムのロースト・ローズマリー風味、モッツアレラチーズの入ったトマトのサラダ……。それらを横に倉本さんに話を聞いた。取材記者である私はインタビューをしてその話を私がまとめようと思っていた。

 だが、それは拒否された。自分で原稿を書くといった。

 その時、私は何を思ったのだろう。取材した相手が自ら原稿を書く場合の仕事の流れを、すぐさま考え、入稿スケジュールを心配したのだろうか。それとも倉本四郎の穴に入れぬ、悔しさを思ったのか……。

 それから写真撮影が始まった。こちら側の段取りの悪さも重なり、奥さんや妹さん夫妻とともに納まっていただく写真のために、倉本さん自身が料理したアサリの入ったパスタはのびてしまった。

 倉本さんはその記事の原稿でこう書いていた。
「しかし、この夜の献立は失敗だった。撮影時間を考慮に入れず、タイミングが命のパスタを選んでしまった。 アサリの風味があっけなく飛んだ。ローストした骨つきラムのローズマリー風味も、温めかえしているうちにバカになった」(2)

 あの時、自分が原稿を書くことになったら、どんなことを書いていたろう。倉本四郎の穴に潜り込んだ私は、倉本四郎を操って、どんな言葉を書いたのだろうか。

 そう、私はその穴の中から、何を感じとることができたのだろう。
 それは人物と書物との違いではないか。倉本四郎の視界で、初めて私は具体的に人物と書物の言葉の違いをわかったのだろう。テープ起こし原稿には、どんなライターでさえ見出せるマルコヴィッチの穴があるが、作家が印刷間際まで言葉をコントロールしている書物のどこにそれはあるというのか。書物とは、徹底して作者に管理された言葉の集積なのである。

 この物書きは、それでも尚、書物の言葉からやはり穴をみつけることができる人だったのである。私は、倉本四郎の穴の中で、その仕掛けを見つけようとしたはずだった。


(1)『本の宇宙あるいはリリパットの遊泳』(平凡社
(2)「アサヒグラフ」1996.10.25号(朝日新聞社

(この原稿は2006年11月13日に改変しています)