釜ケ崎まで

翌日は、映像記録の可能性を追求しているグループremoのメンバーに会うために動物園前のフェステイバルゲートという遊園地までいったのだが、時間がかなりあったので、近くをぶらぶらしてきた。通天閣を目指し歩き、その下では車のちょっとした接触事故があったらしく、しかしどうやら運転手は暴力団関係らしく、何かが起こるのではないかと期待する野次馬が取り囲む事態となっていた。まあ、何ごともなく事態は収拾したのだが、ものすごく反権力的な酔っぱらいを見て、すごく懐かしい感じがした。こういう人は、警察の姿を見るだけで条件反射的につっかかってくるという習性をもっているのだろうか、お巡りさんへの動きへの反応がサッカー選手どころではない、虫や動物のような敏捷性をもっている。


釜ケ崎に行ってきた。このような街、日雇い労働者が集まっている山谷や寿にはときどき行ってみることにしている。人と空間の関係性について、あれやこれや感じていたい人間にとって、とても大切なところなのだ。またフリーランスの人間にとって、自分の生活実態を映像的に見ることができる、ありがたい場所でもある。自分は仕事仲間とどれだけ交流しているのか、酒にいかにやられているのか、明日に対して何かしらの希望をもっているのか、こういったことを、路上でワンカップを飲みつつも真面目な顔をして50円で買える新聞を読んでいる労働者の姿を見て、 チェックするわけである。


公園があり、その東屋が宿泊施設に転用されていた。小学校の禽舎を思わせる金属の柱があり、それを構造にしてベニヤ板が組まれている。蔦が絡んでいるのだが、段ボールハウス的な仮設建築に時を感じさせる植物がからみ合っているところが、絶妙な味を出している。路上には垂木などで組んだ空間の呑み屋、工具屋が並んでいる。


中古自転車店が目立っている。そこでものすごく真面目に働いている親爺と強欲そうなその妻の姿、あるいは別の中古自転車店から聞こえてくる今まで聞いたことがない音楽。多分インストのサーフィンミュージックなのだが、アンプがおかしいのだろう、とても奇妙にスピーカーが鳴っている。それがマニアックな作業振りを見せる自転車屋のお兄さんの姿と重なって、人工電気大衆音楽ともいうべきぺらぺらのポップスとなって聞こえるのだ。


公園のベンチで昼寝をして、その後、フェステイバルゲートでremoのKさんと会う。
映像をめぐる彼との話はとても刺激的だった。このことは、もう少しアクションを起こしてから語っていきたいと思う。