菊地成孔の「テープ起こし原稿小説」 その地平と耳のそばたて方

「テープ起こし原稿」を、テクスト形成の新たな地平として考えること。そんなことを続けてこのblogで書いて、久しぶりに東京に出て、赤坂の書店で雑誌『en-taxi』(扶桑社)最新号を買い、いつもいく24時間営業の韓国スープ( ソルロンタン)の店にいって雑誌を開いたら、「テープ起こし原稿小説」が載っていた。

書いてるのは菊地成孔
タイトルは『Q&A』


「あー。あー。あー。えええーっと・・・うーん。そうだな・・・出だしは・・・そうね。ちょっと凄いリスクを負ってこれを書いているわけですからあ、本当のことを言えば扶桑社には2億円ぐらい貰いたいぐらいなんですよお」
というMDに向かって語りかける「僕」の言葉から、その小説は始まる。


ここで行われることは「僕」の秘密のセックス行為で、それは何かというと、ホテルに設えた透明な硬化プラスティックの水槽に潜った全裸の女の子を眺めることからスタートする。女の子は口にダイヴィング用のレギュレーターをくわえて、その先の「ホースの長〜いのが僕の足下のボンベまで伸びている」。さらに女の子は水から浮かないように足首と腰にウエイトを巻いている。彼女は「窒息 マゾの水中 フェチで、しかも放置プレイが好き」なのである。


この「テープ起こし原稿小説」ならでの魅力は、軽躁ぎみの「僕」の笑い声「はははははははははは」と、女の子が息がつまって死にそうになると同時にエクスタシーに達する時の音「 ゴボゴボゴボゴボ。あう。 ボゴボゴゴボゴボ。ううっ。ボゴボゴ」がテクストに何度も提出されるところだ。


しかし、この「はははははははははは」と「 ゴボゴボゴボゴボ。あう。 ボゴボゴゴボゴボ」を読んで気づいたと思うのだが、音の言葉としてどこか魅力に欠けるのである。
そして「あー。あー。あー。えええーっと・・・うーん。そうだな・・・出だしは・・・そうね。ちょっと凄いリスクを負ってこれを書いているわけですからあ、本当のことを言えば扶桑社には2億円ぐらい貰いたいぐらいなんですよお」といったような口語文もどこか理路整然として、「秘密のセックス行為」を描写するには荒唐無稽な味わいがない。またホテルでの場面を録音しているわりには必ず同時に存在するノイズがないのだ(アダルトビデオのセックスシーンのサウンドで、クライマックスだというのに遠くの消防車のサイレンの音、隣の子供たちの声が聞こえたりすることがあるでしょ)。


多分、テープ起こし原稿の割には理路整然としているのは、菊地がそういう人だからだ。私はテープ起こし原稿の荒唐無稽さなどと何度も書いてきたが、たまにテープ起こしをしても論理的に形成されたテクストになっている話者もいるのだ。
菊地は頭がよく、そして耳が悪い人なのだろう。耳がいい人ならば、音の豊かさをもっとキャッチし、笑い声や死にそうな声、同時多発するノイズをもっと楽しく描写していくはずだ。


きっと菊地はミュージシャンだというのに、耳を悪くするということまでして、何か伝えたいことがある人なのだ。それは何か。この小説は実は二部構成になっており、タイトルの『Q&A』のQを示す部分がテープ起こし原稿小説となっている秘密のセックス行為を描写するパートで、Aがその行為を分析するパートとなっている。


後半のパートでは、水槽に沈んだ女の子を見ると何故自分が異常に興奮するのか、エアーを止めて女の子が失神する瞬間がその興奮のピークになるのかが分析されていく。そして精神分析で分析されてしまうと、その興奮は完全に興醒めてしまうと記述する。


しかし、それでは終わらない。菊地はそれでもなお書く。「精神分析治療を受け、フェティシズムの魔術が失われてしまった、 アウラの喪失の後に、冠婚葬祭仏教の如く、女の子をプールに沈め、薄ら寒い熱狂と共に射精するのである」
彼はその行為を「滲み出すブルー」といい、そしてやっとここで菊地は耳をそばたてるのである。何か遠くで響くサウンドを聞きながら、このブルーを「ここ数十年のアーバン・ブルーズだと思っている」と書く。


菊地は、ここで音楽家らしくブルーズの話をしだす。一般的な音楽史におけるブルーズの起源とはちがった音楽の別ルートがあり、それは19世紀から始まった都市生活の中から生じた性的倒錯の研究とその治療から起こったアーバンブルーズなのだと。彼は突出した狂気のドラマよりも治療してしまった者たちの静かな合唱こそが、その音楽の本質なのだと語る。


そう、菊地は秘密のセックス行為のテープ起こし原稿には興味をもたない。今ここで鳴っている快楽の声や音を問題としない。彼が興味をもつのは、治療時に行われた患者である自分と精神分析家の会話(それはテープ起こしされることは禁止され、いつのまにか書物になっている)であり、そこから生まれる吐息、それでもなお快楽を求めようとする者が滲み出してしまうブルーな音色である。

彼の耳が何を聞こうとし、何を聞くことを拒否するかが理解できただろう。今ここの音を聞くことができず、音をここ数十年の音の層としてしか聞くことができないアーバンミュージシャンの悲喜劇。伝えたいことは層でありその圧縮なのだ。


ここで私が確認したいのは、菊地が「狂気を恐れて治療を『受けてしまった』多数の人々の奏でたアーバンブルーズ」に対比して、「テープ起こしした原稿の地平」を浮上させたということである。


菊地はとりあえず感心を示さない身振りをしているが、狂ったように遊ぶ場所としての言語の地平である「テープ起こしした原稿の地平」を小説の世界に浮上させたのである。
昨日書いた カウフマンとスパイク・ジョーンズが、その作品でストーリーでも論理でもなくグラウンドを浮上させたように。
(10/2や10/11のテクストを参照してください)
こうした作業がこれからも同時多発的に続いてほしい。


そして菊地氏には、「テープ起こしした原稿の地平」の音の豊かさを知ってもらうために、この「今村太平サウンズ」をプレゼントしよう。かけますよ。
「今村■それを七億もの中国国民が信じちゃうとなると怖いですね。何やりだすか判らないから。
志賀■ええ、そう、そう。
(奥さん、電話をかけ出す。放送と重なってますます賑やか。志賀さんテレビを見ながら、耳は夫人の電話を聞いていて)(早口で癇癪強く)こっちの名前、言ったか、おい。
(奥さん、すぐ「私のとこは志賀直哉でございますけど」)それ言ってない。初めから。ちょっと家に掛けて見い。
(奥さん、別の電話にかける。アナ「張本選手がまたピッチング始めています」奥さん「直邦ちゃんは今日はどうだった? あ、そう……」志賀さん、高見順の詩集をさし出す。)
志賀■それ高見君の着物で装幀してある」
(今村太平『志賀直哉との対話』筑摩書房より)