ここがその沼地だ。徹底的に遊べ! 映画『アダプテーション』について

目の前には今ここで選択しなければならない岐路がある、それも選べばすぐにまたもう何十番目の岐路に立つことはわかっていながらも前に進む、そして自分といえば腰まで水に浸かって、とにかく前へ前へと進んでいかなければならない。
映画『アダプテーション』(スパイク・ジョーンズ監督)に何度か印象的に出てくるその状況は、この映画のモチーフである蘭に憑かれた人間が幽霊蘭を探すフロリダの沼地での道筋を映したものではあるのだが、私には文章を書く人間が、文章を書いている渦中そのものを表しているかのようで苦々しい。


私はこのblogでテープ起こしの原稿の支離滅裂な言葉の運動に二度ほど触れてきた。すでに書き上げられた文章の言葉と違って、テープ起こしの言葉は様々な方向へと意味の道筋を伸ばしている。人は実際の会話の中では、話者の身振り、音の強弱、ブレスのタイミング、笑い声、唾を飲み込む音、その他、さまざまなその時に起こっていることを通して、その言葉の意味の道筋を選択し、誤解も含めて理解の道筋を通っていくものだけれど、テープ起こしされ文字と化した言葉は、嫌がおうにも言葉が本来もつ滅茶滅茶さを紙の上に現す。


こんな滅茶苦茶な言葉は、私たちライターはもう何度も職業的に出会っていることなのだから、もう意識などしなくて無視していればいいというのに、あの言葉の質感が忘れられない。忘れられないのは、自分が原稿を書くことに「不自由な人」だからだ。文章をすらすら書ける達人は、様々な方向へと意味の道筋を伸ばしていることなど意識もしまい、ただある意味へ向かって言葉ひとつひとつを並べて意味の道を作ってしまえるのだ。文章を書くことが下手な人間は、単語ひとつひとつをコンピュータ画面に現すだけで、その言葉がすぐその場で今ここで選択しなればならない岐路になってしまう。言葉の荒唐無稽さの魅力が忘れられないというよりは、書き言葉に不自由な者は、テープ起こしの言葉の荒唐無稽さをすぐに今ここの出来事として体験しなければいけないだ。ああ、今でもそうだ! しかも、テーマに対して中途半端に論理的であり感情的なので、それは腰まで水に浸かっているような状態そのものなってしまう。歩くことも泳ぐことも不自由なこの「書くということ」の苦々しさ!


雑誌記者から特異な書評家になった倉本四郎についての文章を書いた時にid:hi-ro:20040807、スパイク・ジョーンズ監督の長篇映画処女作『マルコヴィッチの穴』を使ったということもあり、この監督の第2作目となる『アダプテーション』も映画を見る前(正確にいえばビデオ)に大筋を耳にしたときは、やはりそんなライターや書評の問題として見てしまいそうだと想像していたのだが、実際の作品を見てみれば、まさに書き手が書くという渦中その時のことをドラマ化している作品であった。


ストーリーは大雑把に書くとこうなる。前作『マルコヴィッチの穴』同様、実在の人物と架空の人物が入り乱れているので説明はしにくいのが……。


脚本家チャーリー・カウフマンは『マルコヴィッチの穴』の成功し、次の仕事の依頼が舞い込んでくる。それは、雑誌ライターであるスーザン・オーリアンがフロリダで蘭を不法採集した栽培家ジョン・ラロシュを描いたノンフィクション『蘭に魅せられた男』の脚色だ。チャーリーはさっそく作業を始めるのだが、仕事ははかどらない。書けない! アイデアがまとまらず悶々とした日々が続く中、対照的に陽気な双子の弟ドナルドが登場し、彼も脚本家めざして養成セミナーに通い始めたり、双子同士でスーザン・オーリアンを尾行し探偵ドラマのようになったり、ついにはあのフロリダの沼地で反対に脚本家たちが追われたりする。ストーリーは『蘭に魅せられた男』のadaptation(脚色)から次々に逸脱し、思わぬ方向へと向かっていく。


ストーリーはこのように複雑で、ある意味滅茶苦茶なのだが、脚本家カウフマン(実際の脚本家)が真ん中に据えているモチーフはスーザン・オーリアンの著書『蘭に魅せられた男』の中にある次の言葉だろう。


「たとえば幽霊ランが本当にただの幻想でも、毎年毎年それを追い求めて、人々に何マイルも難儀な旅をさせることができるほど、心を惑わせる幻想と言えるだろう。もし本物の花なら、この目で見るまで、何度でもフロリダに戻ってきたいと思う。といってもランを愛しているという理由からではなかった。ランはとりたてて好きな花ですらない。ただ、人々をこれほどまでに強い力で惹きつけるものを見たかったのだ。

こうした人々が植物を欲するほど激しく、わたしも何かを求めたかった。しかし、それはわたしの気質ではない。わたしの世代の人間は、我を忘れた熱狂を恥ずかしく感じ、過剰な情熱は洗練されていないと信じているのだろうと思う。ただし、わたしには恥ずかしいと感じない情熱がひとつだけある−−何かに情熱的にのめり込むことがどんな気持ちか知りたい、という情熱だ」(これは極東ブログ2004年10月6日の日記で『蘭に魅せられた男』を書評しており、そこから引用しているものだ。私自身はこの著書を現時点では読んでいない)


ライターにとって原稿を書こうとする最中、一番恐ろしいことは、今こうして書こうと思っている(取材しテープに録音しテープ起こしをした原稿を前にして)人物があるテーマにものすごい情熱を注いでいるというのに、それに対して自分はまったくそのテーマに対して情熱をもっていないという事実を認識してしまうことだ。そう自覚してしまえば原稿は書けない! ライターはその事実を認識をしないための仕掛けをもっている。たくさんの仕掛けがあるが、それらの仕掛けには必ずこの言葉が中心に組み込まれているはずだ。
「わたしには恥ずかしいと感じない情熱がひとつだけある−−何かに情熱的にのめり込むことがどんな気持ちか知りたい、という情熱だ」


この言葉の力を使って、美術ライターは個展で興奮する絵描きの言葉を、音楽ライターはあまりよくないCDを発売したばかりのミュージシャンの言葉を、あるライターは40年間大工をしていた棟梁の言葉を書いていく。
しかし、何かの拍子に書く行為が躓く。するとたちまちそこは映画に出てくるフロリダの沼地だ。蘭に魅せられた前歯のない男を演ずるクリス・スーパーのいい加減な足取りに疑いを抱きつつもついていかなければならないライターを演ずるメリル・ストリープのように下半身水浸しの歩行である。この男がある道を選べばすぐにまたもう何十番目のまたもや悩む岐路に立つことはわかっていながらもついていく、とにかく前へ前へと進んでいかなければならない境遇に陥ってしまうのだ。


さて、ここからである。一人は沼地の奥深くにある情熱の対象に向かって歩き、もう一人はとりあえず情熱をもってその者の背中を追って歩く。頼りはその情熱だけ、この情熱だけなのだ。
「わたしには恥ずかしいと感じない情熱がひとつだけある−−何かに情熱的にのめり込むことがどんな気持ちか知りたい、という情熱だ」。
しかし、ここがこの映画の恐ろしさだと思うが、カウフマンとスパイク・ジョーンズはこの情熱をふいにとりさってしまう。スパイク・ジョーンズ得意の不意に遭遇する交通事故シーンのように、ライターがもっていなければいけないその情熱をフロントガラスの向こうの空へと突如放りなげてしまうのだ。


恐ろしいことだ。その情熱がなければ、ただ目の前にはもうすでに魅力をうしなったただの男の背中があり、どう歩いていくか考えもできない沼地が拡がるだけなのだ。これはいったいどういうことなのだろうか。


この作家の真意はわからない。なぜ放り投げたのか。わからない恐怖の敏感さでつかめることはこういうことだ。スケートボードビデオの世界で映像作家として育っていたスパイク・ジョーンズには、役者が巧妙に演技するということより、人間が何かの運動をしてしまう人間が立つ「グラウンド」こそ問題なのだという確信があるのだ(カウフマンはこの確信の強さをものすごく信頼しているようだ)。スパイク・ジョーンズは強い確信をもって、小さなしかし大切な情熱をライターからとりあげ、そのライターをおいてきぼりにする。あの沼地に。


沼地とは、脚本家とライターが怯えて逃げまどう、言葉の荒唐無稽なグラウンドだ。たびたび現れる意味の流れの中断、無意味な言葉の突然の遮り、まったく違った話の強引な折衷、咳や笑いなどノイズさえもが思考の流れになってしまう、あのテープ起こし原稿に現れる言葉のグラウンドとしての沼地。


この映画の基本は、スケーターたちがさまざまな傾斜をもったグラウンドの上を遊び興ずるように、沼地というグラウンドで徹底的に遊ぶことである。沼地に双子の脚本家という複数のアリゲーターまで放ち女性ライターを狂乱に落としいれるハチャメチャのストーリーが展開する。ライターを徹底的に虐めぬけ。たくさんの岐路をデタラメに選択し歩き続け時には水の中を泳いでいってしまう物語のジグザク前進。


最終的にカウフマンとスパイク・ジョーンズは、映画のadaptation(脚色)をadaptation(適応)という方向へもっていく。「情熱的にのめり込むことがどんな気持ちか知りたい、という情熱」というものを「愛情」に強引に変換させていく、ある意味ハリウッド的な物語の力学によって。しかし、それ自体は物語のオチ程度で大した意味はないと思う。大事なことはこれとはまったく違うことだ。


カウフマンとスパイク・ジョーンズは映画を通してやろうとしていることは、ストーリーや論理を追うことではなく、あるグラウンドを観客の目の前で浮上させてみることだ。前作『マルコヴィッチの穴』では自意識が肉体的に具体的にどこにあるかを知らせるためのグラウンドだった(信じられないことだが、この映画作家たちは、そのことをやりとげてしまった)。そして2作目の『アダプテーション』では、物語を発生する前の言葉がひたすら運動するグラウンドの浮上を謀った。


この映画作家たちは次のようなことを考えているのではないか。優れた思想を跳び越せるスケーターも面白い、あるいは素晴らしい物語のスロープを天才的な技芸で滑り込めるスケーターもいるだろう。そいつらに拍手することもいいことだろう。しかし大切なことは、自分が狂ったように遊び興じることができるグラウンドを探すことだと。


アメリカでは、別荘に忍び込みプールの水を抜き、その丸まったプール底を使ってスケーティングする者たちがいるという。彼等の映画にはそんな趣がある。ハリウッドの別荘のプールの水抜きとしてのストーリーテーリング。


たぶん私達はテクストの世界で、グラウンドを現前させるテクストがあることを忘れている。それは遊び興ずる言葉のグラウンドのことを欲望しないからだ。ファストフードの店員の挨拶のようなストーリーや論理を受け取っているだけなのだ。


私はとりあえず、「テープ起こしの原稿の言葉」、「今村大平のような人の、ひたすら記録しようとする描写する言葉」id:hi-ro:20041002、ここにグラウンドがあるのだと思っているのだけれど……しかし実はやはり僕はフロリダの沼地の中だから……水を抜こうとしているんだ。