ノイズ文学を紹介しよう!

私はここでノイズ文学を紹介しようと思う。
既にノイズ文学が1970年、筑摩書房で発表されていたのである。


私は前々から気になっていた書物があり、それを先週たまたまネットでみつけた。その書物が昨日、北海道の古書店から送られてきたのだ。今村太平『志賀直哉との対話』という本である。


今村は『漫画映画論』などを書いている戦前戦後に活躍した映画評論家である。ノイズということで、このエピソードから始めよう。


私はミュージシャン大友良英の知り合いと仲がよかった時期があり、間接的だが彼が香港映画の映画音楽の仕事をするいきさつを知っていたので、その時期に今村大平の本を大友に渡そうとしたことがある。どうして今村の本だったのかというと、映像と音響への考察、それよりも何よりも映像と音響、とくにノイズの叙述が最高にセンスがよく、映像に音を付けるときによいヒントになると思ったからだ。今村のテクストを引用してみよう。たとえばこんな具合である。


「ギャングがピストルを打ちながら階段をのぼって行く。青年がそのあとを追う。ピストルの音におどろいて人々がとび出してくる。人がふえるにつれてざわめきは大きくなる。この拡がる雑音につれて、青年とギャングは、階段をいよいよ上へのぼって行く。そして雑音が最大になったとき、ギャングはのぼりつめ、うたれ、墜落するのである。階段の上昇にともなう雑音の増大。それはきわめて音楽的である。墜落したギャングを見た母親が絹をさく悲鳴をあげる。そのとき一時にすべての音が消え、ただこの悲鳴だけが画面をつらぬくのである。それは悲劇的なオペラのソプラノをおもわせる。ここには雑音の音楽的処理があり、もろもろの音の見事なシンメトリーがある」(「漫画映画の音楽」)


今村の言葉がすごいのは、映画音楽だけでなくノイズまで描写できる言葉であり、音楽に関する物書きでもここまでいっている人は、私は今まで読んだことがない。今村は映画は、物語の映画から記録映画へと進展していくと考えていたのだが、自らの言葉も記録する言葉へとその方向へ向けていた。その言葉が音楽をさらにノイズを記録しようと格闘しうまれたのが上のようなテクストなのである。その今村が記録する言葉を使う小説家として尊敬していたのが、志賀直哉なのだった。


確かに志賀直哉の小説には、小説といっていいのかわからない、ただただ日常が描写される部類のものがかなり多くある。「こんなの小説ではない」と思う人には、読みたくもない、やけに映像的に描写された日記の類、あるいは小説を理解できなかった近代日本人が書いたただのクズにすぎないだろう。


今村は志賀直哉の文章を全面的の肯定していた。志賀直哉が実際にあったことを「事実そのままに記した」ことを絶対的の肯定し、文学もまた映画のように記録の方向へ向かうと考えていたようだ。


1966年、今村は、志賀直哉を記録の文学者として読み込んでいく文芸批評を「思想の科学」に載せる。それをたまたま読んだ志賀直哉が今村にハガキをよこし、家に来ないかと誘う。今村は歓んで志賀直哉宅を訪れるわけだが、その時のことを「記録」したのがこの『志賀直哉との対話』という書物なのである。


ここで記録にカッコをつけたのだが、この記録の仕方がすごい。今村は記録映画へと進展していく映画史を考えぬいている映画批評家である。それが記録の文学者として尊敬する志賀直哉に会いにいくわけだが、彼は「人間の記憶がカメラという機械によってより進展していった形が記録映画である」と考えているために、志賀の言葉をテープレコーダーという機械で記録しようと息子に重たいテープレコーダーをもたせて出かけていくのだ。しかも、正確な会話の記録にこだわるあまり、テープ起こしそのままの言葉を印刷することを実行しようとする。


志賀は出来上がった対談の原稿を見て「まるで酔っぱらいが喋ってるようだ」といい「活字にするのは止めたい」というのだが、今村は押し通してしまう。私はこのblogの他のテクストid:hi-ro:20040807でも書いたのだが、テープ起こしの原稿はほとんどの人の会話の言葉は支離滅裂である。そうまるで酔っぱらいの言葉なのである。しかし今村は若干の手直しをしてもらい最終的にはその志賀の「まるで酔っぱらいが喋ってるようだ」という会話を活字にし、そして筑摩から本にして出してしまう。その本のテクストがノイズ文学なのである。


志賀■そら、たしかに園池ンとこにあるかってんで、聞いたらね。
今村■ハア
志賀■こんだ、うちに無いと。たしかに園池ンとこで見た記憶は ハッキリあるんだけどねぇ。
今村■ハア、ハア。
志賀■園池なんか、もうそいうものがありゃあね。だいじにしとくたちだからね。そんなもの寄付すりゃいいと思ったんだが、そういうもの全然知らないと、こういうんでね。それはちょっとね、最近の意外に思ったことなんだけど、ハッキリ記憶にあるんだろうけどね。
今村■ハア、ハア、どっかから出てくるんじゃないですか。意外なところから……。
志賀■うーん、どうだろうな。何もそりゃ、「白樺」やり出す前のこったからね。
今村■で、空襲ってものがありましたからね。
志賀■うーん、只そういうことは若い頃から巧かったもン。武者(小路)もよくね。女中がね、あの奈良にいた頃ね、菓子鉢もって来てここえ置くと、ヒョイと手を出して、間に取って食ったり(笑)
今村■ハア(笑)
(読みやすくするため■を入れている==引用者)

どうでしょうか? これを読んで意味がわかった方がいるだろうか。多分いないのではないか。ノイズである、白樺や武者という言葉が入っているのでノイズ文学である。だいたい今村自身もこんなことを書いているのだ。


「こういう会話が録音されているが、何についてしゃべっているのがどうしてもわからない。判らないものについてしゃべっているのに、「どっかから出て来るんじゃないですか」とか「空襲ってものがありましたからね」と言っている自分もいい加減なものだが、しまいには志賀さんと声を合わせて笑っているのにはわれ乍ら呆れた」


はっきりいってこんなことを書いている今村大平が、私は大好きである。ライターをやっている人はよくわかると思うがテープ起こしをしていて、まったくわからない会話をしている自分の声を聞くときが時々ある。あれはなんなのか……驚きである……ここでは(自分のインタビュアーとしての能力は問わず)ノイズ文学の萌しとしていっておこうではないか。


この書物で展開されている今村のノイズ文学の手法はいくつかあるのだが、一番強力なのが同時多発音バージョンである。会話の途中、志賀直哉がいきなりテレビのスイッチをつけてしまうのだが、そのテレビの野球中継の音も「記録」してしまうのだ。


「今村■警視総監みたいなことやったんでしょう?
志賀■うん、そいつのこと今月のに書いてあるけどね。
 (アナウンサー「三振が三つです」)
今村■ベリヤも処刑されたんじゃないですか。
志賀■しまいには、されたのかね。
今村■今の中国の何だか変ですね。
志賀■変ね。(広岡、ダミ声で「三振喰らいますね」)(「日中文化」というタブロイド版の刷り物を出して見せる。その一面に松村一人が毛沢東の礼賛文を書いている。それを指して)大分の知事をしてた松村の子供なんだけどね」


毛沢東のことが出てきたせいだろうか、このあたりゴダール映画の音響体験のようである。しかし今村のノイズ文学はさらに強力になる。奥さんの電話をかける声に志賀の癇癪サウンズが重なるのだ。

「今村■それを七億もの中国国民が信じちゃうとなると怖いですね。何やりだすか判らないから。
志賀■ええ、そう、そう。
(奥さん、電話をかけ出す。放送と重なってますます賑やか。志賀さんテレビを見ながら、耳は夫人の電話を聞いていて)(早口で癇癪強く)こっちの名前、言ったか、おい。
(奥さん、すぐ「私のとこは志賀直哉でございますけど」)それ言ってない。初めから。ちょっと家に掛けて見い。
(奥さん、別の電話にかける。アナ「張本選手がまたピッチング始めています」奥さん「直邦ちゃんは今日はどうだった? あ、そう……」志賀さん、高見順の詩集をさし出す。)
志賀■それ高見君の着物で装幀してある」

この『志賀直哉との対話』は3つのパートで構成されている。最初は記録文学者としての志賀を批評したもの。二番目が志賀との対話(ノイズ文学!)。そして三番目がまた興味深いのだが、その声の音質や志賀の振るまいを批評するパートである。たとえば上のいきなり高見順の詩集を差し出す志賀の行為を、今村はサイレント映画の役者を批評するように、そのアクションを鋭利な言葉で批評していく。


ノイズ文学と、アクションにこだわっていく批評。私たちの文学が決してつかまえることができない音響と映像の豊かさの体験をこの書物ではできるのだ。DVDなんかついていても、この書物には追いつけないであろう。
ノイズミュージックを行っている制作者、新たな文学へと向かおうと思っているキミ、この本はお勧めです。『志賀直哉との対話』今村大平。