築地というテリトリー

さて、暮れから正月にかけての報告をしておこう。
実は歳末の数日、築地の佃煮屋さんで働いていた。
兄の友人が築地のお店の御子息で、私達兄弟は10代の頃から歳末になると築地で栗きんとんなどを売って過ごすのである。それぞれ仕事をもっていながら、そしてアルバイトではすぐにはやとってくれない年齢になっている私たちだが、暮れになると、何故か築地の売り子になってしまうのだ。私はフリーだからこういうのもありだと思うのですが、兄などりっぱな会社員なんですよ、値札に猫の絵なんか描いて楽しくやっております。(ありがとうございます、Sさま)。


私が10代の頃の築地、つまり30年近くも前の時代の頃と比べると、おせち料理やその材料を買う客足は随分減っている。今ではきんとんやはぜの甘露煮、田作りを買いにくる人たちはけっこう年配の方だ。マクドナルドなどのファストフード味で育っている人々には口にあわない味なのだろう。そして年配の方は大家族の家長夫妻ではなく、夫婦2人だけになっており、買う量は減っており、本来のおせち料理がもっている量感はもうなくなっているのだろう。
また、気になるのはわかさぎの甘露煮、田作りなど魚の形が見える商品の売り上げが落ちている感じがすることだ。


私の知り合いに「魚の目が自分を見ているような気がする」といって魚の料理を嫌っている人がいるけれども、自意識過剰の現代人にとって、あるいは殺生の現場から遠く離れている現代人にとって、自分を見返す「生物の目」は大きな問題なのだろう。考えてみれば食肉はこの問題を隠蔽してきたが、魚肉はそのままになっている。この「生物の目」への過剰な反応が、今の魚系佃煮の売り上げと関係しているように思える。現在はあほらしい小さな現象だが、この魚の目、魚の顔の問題は将来必ず大きな問題として浮上してくるはずだ。


おせち料理の材料を買いにくる客に替わって築地に現れたのが、この街の店の料理を食べに来る客だ。これは10数年前から出てきている現象で、築地という魚河岸でうまい寿司を食べにいこうという欲望から始まったが、この現象は今では少し様相を変えている。午前6時や7時、カップルがわざわざ築地にやってきて場外にある丼ものやラーメンを路上で食べていたりするのを見ると、彼等にとって築地はラーメン博物館のような施設として捉えられているように思える。


という自分も、築地で働いていて面白いのは、巨大な映画のセットのエキストラのような気分になることなのだ。それにはいくつかの理由がある。
まず、この街の労働者の身振りには歴史に培われた仕草や発声の仕方がみられ、自分もそれを少しはとりいれないとこの街ではうまく立ち回れない、さらに客も私のことを築地で働く粋なお兄さんと思ってくれるので、粋にはできないが、それなりのこの街の身振りをしなければならない、つまりこの都市空間には演技的な要素があるのだ。
これが築地をラーメン博物館的に捉える大きな仕掛けなのだと思う。
まあ、私の場合は働いている店のロケーションのせいもある。その店はあの伊東宙太が建てた奇怪な西本願寺の建物が見えるところにあり、その建築が常に視界に入って働いていると、自分がタイと日本の違いがわからないヨーロッパの映画監督の「フェリーニ・トーキョー」とかいった映画の巨大セットにいるエキストラの一人になってしまうんだけどね。


繰り返すが、築地という都市空間は、かなり演劇的な空間なので、ただ食べるのではなく、その空間を楽しみながら食べるテーマパーク的食嗜好が展開しやすい空間であることは確かだ。そして今、そのラインで気になるのが築地に新たに建設されているビジネスホテル。築地の商店街に食い込む形で建てられているのだが(道路拡張工事などによりこれから築地はまた大きく変化する)、これはなかなかうまいところに作ったと感心した。築地といえば、その名前は地方の人にとっても有名だろうし、銀座に近く、交通も便利、早朝から食事や買物ができるなどの利点もあり、これはかなり成功するビジネスホテルになるのではないか。


都市空間のイメージの配列をしっかりと読みぬき、建設していく小規模なホテル営業展開が増えてくるのだろうか。だとしたら秋葉原にも地方のオタクたちが泊れる、彼等の嗜好に特化したホテルを建設したらいい。世間からは犯罪の温床とかいわれるかもしれないが、面白い空間や新たな性の展開が生まれるだろう。世界中のオタクが集まるそのホテルのエントランスの光景はとても楽しいものだろう。


そういえば韓国や台湾、タイなどの観光客が築地にも増えた。中国の上海あたりの人々も観光で多く来ており、すでに破壊されてしまった昔の街角をこの築地に見ているのかもしれない。たとえば上海の観光客に築地の売り子である私はどのように見えているのだろうか。たとえば自分の顔。中国で巨大建築を作っている磯崎新のいかがわしい顔からは遠ざかりたいものであると、『en-TAXI』(扶桑社)最新号を見て思ったのだが……。