高橋悠治の演奏のように『海辺のカフカ』を読む

高橋悠治の『ゴルトベルグ変奏曲』の演奏会へ。クラシックの演奏会に行って、いつも気になるのは、観客の中にいる、小さい頃からクラシック音楽の教育を受けて大人になってしまった人の姿。この日本社会でクラシック音楽やバレーを小さい頃から学んでしまった人たちを見ると、なんだか ドキドキする。
高橋悠治の演奏は、そういった人たちの身体を、内側から日本の社会へと開いていくためのマッサージのようにも思える。
私の家族にも親族にもそういう子供/大人はいなかったので、私はこのような行為を、ただ微笑ましく見ていればいいのかもしれない。そして自分が音楽や舞踊ではないどの分野で、アジアの土地でグロテスクな子供西洋人/大人西洋人になっているのかを考えた方が、いいのだろうか。


そのコンサートの帰り、村上春樹の『海辺のカフカ』が文庫本になっていたので、さっそく購入して読む。
読んでいて、一番気になったのは、第二次世界大戦の最中に、山梨県の子供たちが集団で記憶を失う事件。とりわけその事件に関するアメリカ陸軍情報部の調査ファイル。


アメリカ人が日本人を観察している、特に先の大戦に関わる形で「医学的に」観察しているという構図は、どうして自分の深い部分を揺さぶるのだろうか。


それは長崎と広島にアメリカが落とした原爆ということと深く関わっている。核爆弾という兵器の使用は、アメリカが日本を医学的に観察するという関係性を強いた。A という国がBという国と戦争し、勝利することによってできあがった関係性は歴史的に様々だったろうが、一方が一方を医学的に観察していくという関係性になったのは、あまりないように思う。それは特別な関係だ。


放射能影響研究所という組織がある。広島・長崎の原子爆弾被爆者における放射線の健康影響を調査する組織だ。
http://www.rerf.or.jp/


こういった組織自体が私の心を揺さぶるのだが、このサイトを見ていくことで、とても不思議な気持ちになったことがある。
このサイトに「MillerのABCC-放影研の想い出、1953〜1990年」というテクストが載っている。放射線影響研究所とその前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)の活動に長い間かかわってきたRobert W Millerという人物が、30年以上にわたる学術的・個人的な逸話を織り交ぜて書いているというテクストである。


いくつかの興味深いエピソードが載っているのだが、1954年2月12日、マリリン・モンロージョー・ディマジオと一緒にこの放射線影響研究所に訪れたという話がある。http://www.rerf.or.jp/nihongo/historic/psnacount/miller.htm二人はハネムーン中。ディマジオの関係者である人物が、研究所の内科医として働いていたので、会いにきたのである。


マリリン・モンローというと、日本の男がアイドルとして、あるいは自慰の対象として見てきた女性という印象が強いのだが、このエピソードを知ると、モンローが日本人を見返しているその視線を強く感じるのだ。しかもそれは放射線影響研究所という施設を通して医学的な視点で日本人を見ている。戦後の日本人男性である自分を強く揺さぶる視線の劇がそこにある。


さて、この小説『海辺のカフカ』には、猫殺しの「ジョニー・ウォカーさん」、美人局の「カーネル・サンダースさん」がまさに、その姿で出てくるのだが、このグロテスクさ滑稽さは、先に書いた、クラシック音楽のコンサートやバレーの発表会の観客席で出会う、小さい頃から特殊な教育を受けて大人になってしまった人の姿を連想させる。
海辺のカフカ』では、アメリカが深く関わる記憶喪失の経験を経た戦中世代、死も性もどっぷりアメリカの商品文化に浸かってしまっている(15才の少年にとっての)父親世代、団塊の世代がグロテスク/滑稽に少年の成長に深く関わっていく。
あの高橋悠治の音楽会を経験したからこそ、生じた独自の読書体験なのだけれども、この グロテスクで滑稽な人たちに育てられた少年カフカが、高橋悠治の『ゴルトベルグ変奏曲』の演奏のような仕方で、自己をあたりまえの日本社会へと開いていく物語として『海辺のカフカ』は読めるのだった。


高橋悠治の『ゴルトベルグ変奏曲』の演奏のような仕方とは何かといえば、譜面に書かれた音は必ず演奏するのだが、音の統合と分岐を自由にするため、右手と左手を自分らしくずらす事、バッハが作曲した曲の一部分がまるで演歌のコブシになるくらいまで、そのリズムを自分らしく作り出すということだろう。
このことを踏まえていうと、村上春樹の小説の書き方も、アメリカに深く関わることによってグロテスク/滑稽になった自分の存在を批判しようとするのだが、村上が青春期を過ごした60年代のようには急進的に反米的な行動をとろうとはしない。譜面に書かれた音は必ず音を出すように、アメリカが主導する現代生活をきっちりとこなしつつ、死と性の順番をリズムを巧妙にずらしていくのだ。その順番やリズムをずらすことこそ、『海辺のカフカ』の主題だ。


なぜ、ずらすのかといえば、ここは60年代の世界ではなく、9.11の世界だからだ(ちょっと大雑把ですみません、もう少し細かい方向へと目指します)。
ジョニー・ウォカーやカーネル・サンダース、あるいはクラシックの音楽家バレリーナをグロテスクで滑稽な者として感じるアジアやアラブの人々は多いだろう。
そして問題なのは、その意識が往々にして旧態たる世界の父子関係に回収されてしまうことだ。この小説でも少年は回収されようとする。そこに死を担わされる兵士や テロリストの存在が浮かび上がってくる。
テロリズムを敵のものとして考えるのではなく、アメリカをグロテスクに見ることができるアジア人の自分の方へひきよせてみよう。
すると反米的な行動や思想に現れてくる死のあり方、特に若い人間に担わされていくその死のあり方が見えてくるのではないだろうか。それを踏まえて村上は、性や記憶や成長の順番やリズムを巧妙に変えていくことによって、死の世界から若者を救いあげようとする。


右手と左手を完璧にコントロールできる音楽家が、両の手をずらしながらバッハを演奏することによって西欧音楽からの脱却を試みるように、物語を完璧に語れる者が、若者たちのために、性、死、記憶といったことがらの順番を巧妙にずらしながら書いた近代小説、それが『海辺のカフカ』なのだった。