あの土曜日は1980年代の話をした

11/12は、横浜トリエンナーレのラジオで、ラジオホームランのかつての仲間、それに、トリエンナーレに来ていた小倉利丸さんや毛利嘉孝さんらも加わって、ラジオパーティをしたのだった。


テーマは80年代、さまざまな話をした。
80年代初期から始まった下北沢ラジオホームランの最初の形態は、ある女性が住んでいたマンションの一室を土曜日だけ借りて放送局にするというものだった。
彼女は、その部屋を3つの使い方で使い分けていた。1つは住居として、もう一つはラジオホームランに貸す(彼女は放送にはノータッチ)、さらにもう一つは麻雀ルームとして。


その麻雀ルームには、財団法人じゃがたらのメンバーや、『闇のカーニバル」などの映画監督、山本政志などがよくやってきては、その女性を中心に遊んでいた。
彼女は、彼らと私たちを会わせることは決してしなかった。
このことを私が語るところから、番組は始まった。


いろいろな話をした。80年代中期、私のまわりには、仕事として社会党の機関紙「社会新報」で記事を書く人間が何人かいた。
若者や文化というものに社会党が積極的にコミットしていこうという時代であった。その流れをつくっていたのは社会党の右派だった。組合運動に固執する者は愚鈍な左翼と思われ、文化の方に近づいた社会党の右派。


さまざまな話ができた。