ムラカミ・ハルキが登場する映画

ちょうど1年前からだろうか、月に二度は見る映画がある。なんだか日本映画が見たいなと思うと、知り合いからもらったビデオをセットする。流れる映画にムラカミ・ハルキが登場する。


モノクロの日活映画である。
男は若い時、絵描きとして注目されていたが、実業家への道を歩んだ。その成功を収めた中年の男には息子がいる。男の会社で跡継ぎとして働いている息子には、金で世話をしている愛人がいる。この息子はどこか冷たい性格で、それが原因となって、その愛人は自殺をしてしまう。


そんな事件が起きる夜、主人公の実業家は家で妻と過ごしている。
自殺を知らせる電話がかかる数分前、男と妻は会話をしている。


男「俺は金のために絵をやめ、今の仕事につき、まあ成功した。……ところが、その金が子供を腐らせた。このへんで金もうけから手をひいた方がいい。その方が自分のためになるし、子供のためにもなる」
妻「(かたい表情で)小さい子供のように、わがままをおっしゃって。そんなことは世の中には通りません」


ここで、ノーブルな顔の実業家は自分にいい聞かせるようにいう。
「しかし、このムラカミ・ハルキという男には通る。俺は通すね」


そして、このムラカミ・ハルキは自分と息子をそして妻も腐らせた、金の世界の東京を捨て、映画のラストには京都に去ってしまうのである。


(この映画に一度だけ発せられる「ムラカミ・ハルキ」という音)


ムラカミ・ハルキを演ずるのは森雅之、妻は高野由美、息子は三橋達也、愛人は新珠三千代、このあたりのラインナップでわかってきた人もいるだろう、監督は川島雄三。タイトルは『風船』(1956年度作品)。原作は大佛次郎。戦中にある程度完成した人間が、生きる世界を破壊され、混乱の戦後を経て、平和の時代に風船のように漂いながら生きるしかない姿を描いたものである。


川島ファンにはあまり好まれない映画かもしれない。無垢とか純粋とかが大切なモチーフとなったもので、川島のある種露悪的な映画の魅力からはずれたものだから。しかし、私はこういう映画が好きなんだ。映画というメディアは無垢といったものを表そうとすると不思議な魅力を発しだす。だから宗教映画から動物映画まで、そのような匂いを嗅ぎ分けて見てしまう。


この映画の無垢を表すのは実業家の娘を演ずる芦川いづみである。小さい頃の病気の後遺症で、手の麻痺があり、まわりには「知恵遅れ」と見なされている。
彼女が散歩をしながら歌を唄うシーンがある。口ずさむ歌のサウンドは、物語の中の台詞の音質とは違うもので、歌は説話のレベルと違ったものと感じられる。こういった音質の違いは、映画にはよくあることなのだが、この2つの音の違いが無垢という状態と重なると、とても興味深い現象が起こる。ミュージカルのように台詞から音楽のイントロに乗って唄いだすと、説話の構造は一次元でしかないのだが、登場人物が口ずさむ歌のサウンドの質感が台詞のサウンドの質感と違うと、説話の構造が二次元となっているように思えるのだ。それが、「知恵遅れ」で美しい心を持った娘の意味合い、つまり無垢という意味と重なると、単純なのだが現実とは違った聖なる領域が映画の中に息づいてくるようで、わあ、映画というメディアを体験しているのだ、という気持になるのだ。そして、この映画について「新聞連載小説の映画化です。形式で流したら、どうにもならぬ話で、困りました」と川島は語っているらしいが、この「形式主義」があることによって、映画は映画らしい力を発揮するのである。



この映画、金に汚れた東京に対して、京都が聖なる領域として描かれる。京都の路地の暗さのディティールや祭りのサウンドの質感が丁寧に重ねられ、聖なる空間が出来上がっている。ラストは、その京都の盆踊りの中、左手が麻痺している芦川いずみが右手だけを動かし踊っている姿だ。サウンドは盆踊りの音頭ではなくなって黛敏郎のうねるような音楽が流れてくる。ラストだから、テーマ音楽がかぶさってくるのはあたりまえのことだけれど、無垢といった意味が入っていると、世界の異質な次元のものとして音楽が到来するかのように思えるのだ。無垢や純粋がモチーフとなった映画は、映像とサウンドのデザインが、ある種極端な形として受け止められることができるので、楽しいのだ。そのサウンド体験の中で、さっと呟やかれる「ムラカミ・ハルキ」という音。