1995年からの10年間/小さな店の深い闇/『海のふた』と『仔羊の巣』

このところ、自分の中では、10年間のサイクルがひとめぐりしたなという気持がある。
阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件があった1995年、江ノ島の対岸となる片瀬海岸地域のアパートの一室を借りて、週末になると江ノ島や腰越の海岸で過ごすようになった。
その頃、腰越という地域に、強い愛着をもちだし、実は母方と関連する地域だということを後で知り、このあたりが自分にとって特別な意味をもった地域となる。そこでの生活をワンステップとして、現在住んでいる秋谷への移住が決まったのだ。それから海の家スタディーが始まった。


1995年以降のこの10年間、日本社会は不況ということもあって不毛の10年間といった言葉を聞くが、空間をめぐる文化状況に関してはとても意味のあった10年だった。古い倉庫や商店をリノベーションをしてできあがったカフェなどを筆頭に、スペースへの読み直しが行なわれ、それに関わる人々の生きる意味を賭けた文化闘争が豊かに行なわれてきたと思う。古本屋や海の家といったスペースもこうした状況の中で再発見されたものだったと自分は考えている。


この10年間を振り返って、少し考えをまとめなければいけないなと最近思っていたところ、そのきっかけとなる2冊の本を、一昨日の日曜日にみつけることができた。
よしもとばななの『海のふた』(中公文庫)と坂木司の『仔羊の巣』(創元推理文庫)。
前者は、海辺の街でかき氷屋を始めた女性と、顔と体の右半分にやけどをおった女の子の物語。
語り手の女性と女の子のせっせと働きつつゆっりたりと心をかまえる日々の暮らし方、さびれた街に愛情を注いで欲しいという願い、時折襲ってくるつらい記憶、街の中に必ずいる憎悪をもった人たちへの考え方が書かれた小説。それがかき氷屋という再発見されたスペースでの労働を通して表現されている小説であるところが、この10年間を考えるのにぴったりだと思ったのだった。
印象的なのは、主人公たちの普遍性へと向かう小さな言葉や身振りが愛らしい波動を出しているにも関わらず、その向こうには闇があり、金や監視や憎悪、嫉妬で狂った人々が、その闇の中にいる構図だ。


小説を読みながら、この構図は小説らしく、闇の中にいる憎悪の人が変化していく中で終わるかなと思っていたら、そうではなく「もともと関係のない世界の人だから割り切ってなるべく接しなければいいんじゃないの? だって、なんだか私にはもうああいう人たちって、もう人には見えない。目がおかしいもの。ほんとうに醜いゴブリンに見えるもん」という言葉が示すように、闇の中に置かれたままだ。
私は、カフェやパン屋そして海の家など、愛らしい小さなスペースを多く見てきたけれど、あるところから見れば、そのスペースの背景には闇がいつも見えていたという印象だった。住居や集落を調査していって、ある領域を一歩越えて踏み出してみると差別の構造に囲まれているのが、この日本の社会であるのだけれど、その差別の構造の手前に、深い憎悪の闇がたちこめてしまった時代だった。この闇がどこから生まれたのだろうか? その疑問に答えていこうとしているのが後者の『仔羊の巣』という小説なのだった。


私はミステリーをほとんど読まないので、まったく気づくことができなかったのだけれど、こんなにも、すごい小説が書かれていたのかと、ほんとうに驚いた。物語は「ひきこもり探偵」が事件の謎を解明するという枠組みの上に展開していく。事件といってもそれは日常的な人間関係の中から生まれた小さな謎だ。この文庫本の解説で有栖川公有栖が書いているように、「殺人事件と違い、死体=もの言わぬ被害者は登場しない。したがって、身も蓋もない言い方をしてしまうと『当事者に思い切って解答を尋ねてみる』という可能性が残されている」しかし、それができない。何故なら「コミュニケーション不全に陥った」ひきこもりだからだ、という設定の小説なのだ。
と書いたが深刻なものではない。とても素直で涙もろい「僕」坂木司と、坂木を通してしか世界に出ていこうとしない「ひきこもり探偵」鳥井真一(といっても、探偵だと思っているのは坂木だけなのである)を中心に、もうすでに大人になっている人たちが、少年のようになって友情を語りあい、和菓子を食べ、時には涙を流す、どこか呑気な連続テレビドラマのような小説。
と同時に、この『仔羊の巣』に収録されている3つの短編は、それぞれ地下鉄の駅を重要な場所とし、地下鉄サリン事件の余韻として言葉が紡がれているところが印象的だ。


小さなスペースと背後にある闇。
小さな領域にひきこもること、そのことによって生じてしまう日常の事件。
コミュニケーション不全という推理。
この二冊の小説を導き手として、しばらくこの10年のことを考えてみたい。