映画「パンズ・ラビリンス」と地下世界の言葉


先日、川崎チネチッタで映画「パンズ・ラビリンス」(ギレルモ・デル・トロ監督)を見た。夏からずっと見たいと思ってきた映画であった。予告編を見た時に、これは映画の構造として好きになれるなと直感したからだ。私のフィルム・ベストワンは、ジュリアン・ジュヴィヴィエ監督の「わが青春のマリアンヌ」であり、これは主人公の少年が恋する当の女性が、幽閉されている悲劇のヒロインなのか、ただの狂った女性なのかわからないまま映画を終わらせ、そのことによって映画の細部をことごとく両義的なものに宙づりにし、少年時代の私を奥深い相対主義に導いた作品である。
パンズ・ラビリンス」の予告編を見た時に思ったのは、スペイン内戦の中で翻弄される少女が、牧神パンと出会い地底の王国へと行くというストーリーは、映画の細部を両義的なものに宙づりにする設定としては最良の条件ではないか。これは私向きの映画なのではないか、見てみたいと思っていたのだ。
また私がポップカルチャーの優れた伝道師として敬愛している川勝正幸氏が映画の宣伝用パンフレットを編集しており、このメキシコ人監督が、現在のポップ情況の勘所として押さえておくべき人物なのだなと知ったからである。

「9・11」と地下のライオン男

さらに、戦争と地下王国の幻想というのも気になるテーマであった。というのは、私にとって「9・11」というのは「都市戦争と地下世界の沈黙」としてあったからだ。「9・11」の事態に関しては、イスラム原理主義、テロリスム、アメリカ帝国主義の問題など様々なテーマがそこから語られており、それらがすべて切実な問題であることはわかっているが、そして多くのテクストを読んだが、私にとっては切実なものは何ひとつなく、読めば読むほどに、あのニューヨークの地下世界のことばかりが気になるのであった。
ニューヨークの地下世界とは何か?
まあ、たいした話ではないので、バカおじさんのバカ話として聞いていただきたいのだが、私は90年代中期、ある深夜番組をよく見ていた。その頃、東京の吉祥寺に仕事場をもっていて、上石神井の家に戻るのはけっこう遅くになることが多かった。深夜何気なくテレビのスイッチを入れると、いつも見てしまうアメリカ製のテレビドラマがあった(自分ではぜんぜん意識していなかったが、たぶん、帰宅が遅くなる曜日が決まっていたのだろう)。


どんなドラマかというと、アメリカの現代都市の地下に世界があり、そこにはライオンの顔をもった人間たちが住んでいるというものである(アニメのドラマではありません。これは俳優たちが演じるドラマ)。その中のライオン男の一人には、地上に住む恋人がおり、時々、地上に現れては彼女の住む家に赴くのである。ここからが問題なのだが、彼女の職業は弁護士であり、その住まいの雰囲気がヤッピーのそれであり、アメリカの生活情報をそれほど知らない日本人の自分としては、それがどうもニューヨークのエリートの暮らしとしてしか見えないのである。さらに問題なのだが、このライオン頭のライオン男が、非常に暗いのだ。とても紳士的な語り口で彼女に話すのだが、どこか沈み込んだライオン男なのである。
この連続ドラマでは、毎回何らかのストーリーが展開されるのだが、何回見ていてもストーリーがよくわからない。いつも、紳士的な暗いライオン男と、ニューヨークヤッピーの女性弁護士は、都市の夜景が見える高層マンションのベランダに佇んでは、何かの問題について語り合っているのである。実は、このテレビドラマ、私は最初から見たことがなく、いつも途中から見ていたのでストーリーがわからなかったともいえるのだが、しかし、それだけではない。ドラマ全体のあり方として、大切なのは、この二人が語り合うことがであり、ストーリーはそれほど重視されていない雰囲気の作りなのである。


そして、会話の内容なのだが、曖昧になった記憶を辿れば、愛や正義のようなものについて語っていたような気がする。どうしてそんな話になっているのかというと、それは多分彼女の仕事の表舞台である裁判というものが前提にあるからだろう。これも推測だが、私がいつも見れない前半部は、裁判劇だったのではあるまいか。その裁判が終わってから、地下のライオン男が登場して、二人は愛や正義について語りあうのではないだろうか。こうした愛や正義について語る二人の会話の光景に都市の夜景、多分ニューヨークの夜景が挿入され、はたまた地下王国で何やら忙しそうに働いているライオン人間たちの姿も映し出されるのだ。
こうして書いていると、素晴らしいドラマのように思えてしまうかもしれないが、見ている感触はそうではない。なんだか全体としては暗く退屈なのだ。しかし、そのしんみりとした感じや退屈を何度も経験しているうちに、この知的で暗いライオン男のリアリティが増してきて、彼らが住むニューヨークの地下世界の存在も肌に直に感じられてくるのである。


さて、自分のことだが、そのテレビ番組を見ていた時期の数年後、私は、上石神井の家を引き払って、三浦半島の海辺の町・秋谷に住むことになった。離れた所への引っ越しというものは、その前後にいろいろと大変なことも起こるもので、実際私自身もさまざまなことを経験した。そういうこともあり、すっかりそのテレビ番組のことなどを忘れてしまっていたあの日、2001年9月11日、私はたまたま見ていたテレビで同時多発テロの映像を見てしまったのである。しかし、すぐには、あのライオン男のことなど思い出さなかった。東京大空襲のことを大人たちに聞かされていた世代なので、はっきりいって都市戦争はそれほどショッキングなことではなかったけれども、やはり人並みに揺さぶられて、何をどう語っていいかしばらくわからなかった。
しかし、すぐに語れる人という者はいるもので、9・11について雄弁に語りだした人も多くいた。また、たくさんのテクストが書き出された。しかし、どの人の話を聞いても、どんなテクストを読んでもぴんとくるものはなく、私はぼんやりしていた。しばらくぼんやりとしてから、ある日、あのライオン男の地下王国のことを思い出したのであった。多分、ブッシュが彼にとっての正義を語る映像を見たのがきっかけではないだろうか。
正義を紳士的に暗く語るライオン男のことを忘れていたことに気づいたわけである。そして私は思った。
あの惨事を、女性弁護士が住んでいた高層マンションのベランダから、ライオン男と彼女は見たのだろうか? その時、知的な彼女は何をどう語ったのか? あの暗いが正義を語るライオン男はどんな話をしたのか?
次から次へと問いかけの言葉が浮かび上がってきたが、勿論、答はなかった。
アメリカ社会をリードしていく知的階層の言葉に対応できる、何らかの知識構造の暗喩である地下世界の言葉。その言葉を、あの日から今まで、私は聞いたことがない。


ということもあり、私にとって「9・11」というのは「都市戦争と地下世界の沈黙」のことを意味することになる。
そして「パンズ・ラビンス」の予告編を見た時、何?スペイン戦争と地下王国の幻想? おお〜!と思ったわけなのだ。
スペイン戦争は、社会主義の時代ともいえる20世紀前半を真摯に生きようとした知識人の言葉や行動の試金石ともいえる事件であり、20世紀後半の社会変革を望む人間たちの理想や行動に混迷をもたらした複雑な背景をもった戦争だ。
「見たい」と思ったのだった。


そして先週のある夜、私は川崎チネチッタに「パンズ・ラビンス」を見に行った。有楽町や恵比寿の映画館では嫌だった。過酷な地域にあるロマンチックな場所でこそ、こうした映画は見るべきであろう。京浜安保共闘のポスターの文字を京浜工業地帯で見るとはどういうことなのか、ということをよく知っている私には、今ではすっかり様変わりした川崎駅前だが過去の風景の記憶はしっかり頭に残っているし、だからこそ現在のチネチッタという遊技場のロマンチックな感じがとりわけせつないのだ。はちみつぱいの唄など口ずさみながら、私はナイトショーに出かけた。


実際の映画はどのようなものだったのか? それは私が予告編で予想したものとは少々違っていた。相対主義や両義性とはまったく違った世界のものであり、20世紀のある時代の記憶を満載した非常に過酷な映画であったのだ。
さて、これ以降は、映画のストーリーを語っていきますので、これから映画を見ようと思う方は、ここまでにしましょうね。


子供の領分がないということ

話を続けます。映画はこのように始まる。
1944年のスペイン。フランコ側の軍隊とゲリラが熾烈な闘いを繰り広げている山岳地帯におとぎ話の世界に魅せられた少女オフェリアが母親とともにやってくる。
仕立て屋だった父が亡くなった後、母親が再婚した相手はフランコ軍の将軍で、その山岳地帯に駐屯していた部隊のリーダーだったからである。母親は妊娠しており、男の子の誕生に執着している将軍が母親を呼び寄せたのだ。
実父の死、母親の妊娠、新しい父親は男子誕生へと執着しているという情況の中で、少女の孤立が冒頭から示される。
少女を見つめてくれるのは、将軍の小間使いを務める陰りをもった表情の女性、そして旅の途中で見つけたケルト的な石塚から現れたイナゴのような形をした大きな昆虫だけだ。


大きな昆虫は、少女がもっているおとぎ話の書物の挿絵を参照して、妖精の姿と変身する。妖精は少女が住むことになった家の庭にあるラビリンス(迷宮)の奥へと案内する。そこにはヤギと人間が合体したような体をもつ牧神パンが待っていた。そして、実はオフェリアは地下王国のプリンセスの生まれ変わりであり、3つの試練に耐えられるなら、本当の父や母が待っている地下王国に戻ることができると語るのだ。少女オフェリアは決心する、3つの試練に立ち向かうことを。


ここから3つの試練をめぐるドラマが始まるのだが、少女はどっぷりとファンタジーの中に入ることはできない。子供の領分が保障されないことがこの映画の特徴なのである。フランコ軍とゲリラ戦の闘いが、少女の生活を脅かす。小間使いの女性が実はゲリラの一員であり、その行動を偶然に見てしまったり、将軍と母親の関係は良好なものではなく、また母の体調はすぐれず、少女はそれを心配しなければならないなど、大人の現実は少女の幻想を複雑な形で脅かすのだ。夢見がちな少女は、孤立しているが故に夢の翼を大きく広げるのだが、それを使って幻想の世界を飛び出すことを、大人の世界の錯綜した闘争が許さない。


それでも少女は、大人たちの時間に対して垂直に潜り込むようにして、巨大な樹木の中に入り込み、どろんこの中に住む巨大なカエルから黄金の鍵を手にしたりする。こういった「試練」の場面ではグロテスクで少し滑稽な感触の世界が展開する。私はチェコの作家の作品などに関する仕事にそれなりに関わっている割には、彼の国の文化の特徴でもあるグロテスクということがどうもよくわからないところがあったが、このメキシコ人の監督の映画で、グロテスクの魅力がなんとなく理解できたような気がする。この映画の中のグロテスクとは、どろんこの中の入っていく少女と虫たちの遭遇のように、人間の身体と虫や動物、植物が一体化するために、体を変形していくような事柄であり、他生物と自己との融合・一体化が目指されている。それに対して大人たちが戦争で行なっていることは、人間が人間を徹底的な他者として区別する行為であり、その究極的な行為としての肉体破壊=拷問や処刑が目を覆いたくなるような残虐な行為として表現されている。このグロテスクと残虐が峻別されていることによって、私はグロテスクの魅力がなんとなくわかったのだった。


だが、興味深いのは、映画では、子供の幻想の領域にあるグロテスクと、大人の領分にある残酷が、物語の進展とともに、それぞれが反対のあり方に変質してしまうことだ。この映画の優れたところは、グロテスクと残酷の様態を一カ所に留まらせず生成変化させているところであり、物語は途中からその変質の運動に牽引されていく。
たとえばラスト近く、将軍は、拷問しようとする小間使いの女性に、反対にナイフで口から頬を切られ、傷口がまさに口を大きく開ける、それを自分で針と糸で縫ったりするのだが、残酷というより、どこかおとぎ話のように少々の滑稽感を含むグロテスクな感触なのだ。その変化とともに、グロテスクの領域にあった牧神パンもそのあり方を変化させる。子供の世界に属していたと思っていた存在が、突然他者となっていく。そのことによってラストの悲劇が生まれる。


子供の領分が保障されないことが、「パンズ・ラビリンス」の特徴だと先に書いたが、そのことについて触れておこう。
たとえば、題名にもなっている庭の中のラビリンスは、とても印象的な演出なのだが、迷宮の機能を果たさない。ストーリーを展開するだけではなく、設定としてある空間を上手に使うことで映画のドラマツルギーを魅力的に展開できることは、これだけ映画を上手に演出できる監督ならば知悉したことであろう。しかし、ここでは映画の劇を展開するための恰好の材料であるラビリンスが、迷宮の魅力を発揮しないのだ。迷宮といってもそれは曲がりくねった回廊に過ぎず、そのためラビリンスに逃げ込む少女はすぐさま追っ手に捕まってしまう。世界に、子供が逃げ隠れできる場所はないのだ。そのことによって、少女はおとぎ話の中の子供のように余裕をもつことができない。おとぎ話の中の子供のように狡猾ともいえる知恵を働かすことができない。怪物や精霊を手玉にとるような駆け引きが出来ないのである。最後に少女オフェリアは牧神パンとの約束を駆け引きにすることもできず、現実の大人だけでなく、幻想の登場人物からも孤立する。子供の孤立に、映画を見る者たちは打ち砕かれる。私たちは打ち砕かれまま、映画は終わる。


ファンタジー映画隆盛の中の現在の映画産業の中、このギレルモ・デル・トロ監督はまるでテロリストのようだ、とまで思ってしまった。偽善的なファンタジーの構築物を破壊するために、自爆テロの使命をもった少女をハリウッド映画帝国へと送り込んだのだ……と、あまりに辛いラストだったので、私は思ったりしてしまったのだが。

スペイン市民戦争と地下王国としてのメキシコ

しかし、映画の中の子供の余裕のなさはいったいどこから来るのだろう。「子供たちの現在」がこのようなものであるという制作者たちの認識と、もうひとつスペイン市民戦争に対する認識がそうさせるのであろう。
スペイン市民戦争は、1936年に起きたフランコ将軍が率いるナショナリストの軍事反乱に対抗する様々な市民組織(アナルコ・サンジカリズムを志向する労働者たち、反スターリズムのマルクス主義統一労働党、国際義勇軍、そしてソ連に指導されたスペイン共産党など)が立ち上がることによって勃発した内戦である。市民組織の連合体である人民戦線の内部対立は激しく、バルセロナでは共産党と他の組織が軍事衝突を起こす。
(少女オフェリアの父親である仕立て職人は多分、人民戦線を闘って死亡した者として設定されているのであろう。私などドゥルティ軍団に入ってくれたらいいな、などと思ってしまいますが)
そして39年、フランコ側の勝利で終わる。「パンズ・ラビリンス」の時代設定は1944年だから、フランコ側は人民戦線の残党を抹殺するために徹底的な弾圧をしている時期である。そうした中、人民戦線の残党から多くの亡命者が出る。その時期、フランスはナチス・ドイツに制圧されていたから、すでに亡命していた者は大変な弾圧を受けていたので、映画の出てくるゲリラ側兵士が逃走する場所としてはフランスはすでに夢見る場所ではないはず。そこで浮かび上がってくるのが、メキシコである。実際、多くの亡命者たちが、人民戦線を国家として支援していた希有の国、メキシコへと逃げていった。


しっかり学んでいないのでうまくいえないのだけど、スペイン市民戦争は、まだ革命を夢見ることができた労働者が、錯綜する世界情勢の中で、疲弊し追いつめられていった戦争だ。この映画の子供の余裕のなさ、保護される空間、人間関係がない設定は、この戦争のあり方が影響を与えているように思える。スペイン市民戦争を闘った人民戦線の中には、少女オフェリアのように孤立し、市民の武装や友愛の問題などいくつかの試練に遭遇し、追いつめられ、そして地下王国への逃走を夢見るしかなかった少女オフェリアのようにメキシコを逃走先として想定した者もいたであろう。
そして興味深いのは、この映画の制作者たちがメキシコ人であるということだ。人民戦線が最終的に逃げ込もうと考えていた地下王国の住人たちなのである。単に夢見られる場所ではなく、そこには当然秩序があることを知っている者たち。映画「パンズ・ラビリンス」が過酷なのは、20世紀前半に存在した共和国労働者たちが、国際的ネットワークの中で実際に経験した残酷さのためであろう。
メキシコはそのような残酷な記憶が集積した国なのだろうか。本作品の「逃走する者への過酷さ」は突出しており、これは個人の資質によって選ばれたものではないように思えるのだ。


さて、21世紀である。今夜、地下世界のライオン男は若き女性弁護士と何を語りあっているのだろうか。それは決まっている。グアンタナモだ。


(写真は、映画鑑賞後、打ち砕かれて撮影した川崎チネチッタの闇。暗い。)
(ニューアフロ・スパニッシュジェネレーションの歌手、Buikaを聞きながら)