「極西文学論序説」4章について 

 東京の高台に立つラフカディオ・ハーン、空襲のために飛んできた東京上空B29の乗務員、首都高速上のアンドレイ・タルコフスキー、そしてやはり首都高速という高所にいるヴィム・ヴェンダース。映画『ベルリン・天使の詩』のように、あなたは「極西文学論序説」4章で、この者たちを東京の高所に立たせました。


「この映画では天使同士か、子どもにしか天使の姿は見えない」とあるように、私も子供の頃、この中の誰かを見たことがあります。たとえば時空を越えて飛行するB29。戦時中に行方不明になった戦闘機が突如、現代の日本に飛来してくるなんていう恐怖物語が、私の子供時代に読んでいた少年雑誌には、今のアニメを準備するマンガカルチャーに混じってよくあったものでした。


 突如飛来してきたアメリカ人乗務員という天使が子供の私の心の言葉をどう読んでいたのか。多分、東京の軒下の薄暗がりや駅前の傷痍軍人の黒眼鏡の裏側にただただ怯えていて、ひたすらもっと明るくならないかなと思っていたはず。そう、小説や雑誌もたくさん売っている現代のコンビニエンスストアの異常な明るさを望んでいたものでした。


 さて、子供時代の私の恐怖を思わず漏らしてしまいましたが、この4章で語られるテーマのひとつは「恐怖」でした。それも「読者を怖がらせることより、語り手が感じた恐怖を読者に伝えることのほうに主眼がおかれている」恐怖の書き方に接近しようとしているようです。


 天使タルコフスキーの手帳にまるで惑星ソラリスの自然のような、保坂和志の「夏の終わりの林の中」の白金台自然教育園が描かれる仕掛けは素敵でした。
惑星ソラリス』にある自然が、実はそこを訪れた者の記憶が作り出した光景であるように、自然教育園の自然も「人の手がまったく入っていないように手をいれている自然」として、ここでは設定されます。


 今、日本の文学でおもしろいのは、「夏の終わりの林の中」の登場人物たちのように、公園などのパブリックなスペースで、性的関係をとりあえず回避した男と女が自然や風景について語り合うところです。(私は、吉田修一の『パーク・ライフ』を使いながら海の家という場所を考えているメモをこのダイアリーで発表している最中です)。このようなシチュエーションになるのは、「読者を怖がらせることより」、読者が恐怖を分析できる方向に向かわせようと、作家が考えているからとも考えられます。

 
 唐突に語ってしまいますが、この傾向は、デザイナーの角田純一、写真家の高橋恭司などの独自の植物認識者の方向性とともに進んでいくなら、かなりおもしろい世界を築きあげるのではと私は思ってます。(う〜わかりづらいでしょ? 他のところで少しづつ説明/実践していきますね)そんなことを思っていた私に、あなたが引用したもう一人、ハーンの「ゴシックの恐怖」の文章は興味深いものでした。「熱帯アメリカの椰子の巨木」に、ゴシック建築のもつ鋭い垂直方向の運動性を見、そして恐怖するところです。

 
 あなたがハーンのパートで強調したことは、先に触れたこと、彼の書き方は「読者を怖がらせることより、語り手が感じた恐怖を読者に伝えることのほうに主眼がおかれている」ということでした。そして村上春樹は、最終的には「読者を怖がらせる」書き方の作家として扱っています。

 
 このあたりから私は少しわからなくなってきます。

 
 1904年にハーンが刊行した『怪談』には「不思議なことの物語と研究」という副題がついていたことをあなたは書いていますが、ポスト村上の作家たちの何人かが「不思議なことの物語と研究」のような書き方をしているのに比べ、村上春樹はタイトルをタイトルらしく書いてしまう作家ということでしょうか。この恐怖に対する接し方の違いが今ひとつわからない。

 
 恐怖を扱っている吉田健一村上春樹保坂和志の明確な差、その断絶の理由がよくわからなかったのです。

 
 私ならやはり、「公園」、「自然」、「なんかいい感じの男女」を使って探究していくでしょう。しかし、吉田健一は前にけっこう読んでいましたが、何を書いてあったのか今さっぱり忘れているので、まったく見当がつきませんが。

 
 そしてヴェンダースは、作品そのものの視点の曖昧化をもたらす「偽視線」を演じてしまう堕天使として、このテクストでは登場しますね。この偽視線が、現代の日本の文学にどう適用されるのか、これは次の展開ありと考えていいのでしょうか? 『ベルリン・天使の詩』の視線の機能が万全ではない問題は、けっこう深く難しい問題ですし、それに都市ベルリンの問題がからむと1〜2ページではつらい。

 
 さて、最後に思い出話を。吉田健一を私が読んでいたのは70年代後半。当時、私は稲垣足穂マーク・ボランとして読んでいた子供でした。TREXのヒットチューンとしてみつけた「一千一秒物語」の作家が実はティラノザウルス・レックスのような不可思議な哲学小説もやっていた人だったことに気づき、文芸誌「海」(中央公論)で毎月のようにばんばん出てくる稲垣足穂の短編にしびれまくっていたのです。「海」は数ケ月遅れで30円くらいで古本で買っていたのですが、そこに、また渋〜い吉田健一が載っており、スティールアイスパンとかイギリスのトラッドバンドを聞きながらカッコつけて読んでいました。