オアシス音楽史1についてのメモ-2-

画家の古谷利裕さんの「偽日記」の11/23のテクスト
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html
を読みながら、この海の家の90年代前期の音を考えていく。
たまたま読んだ文章だったが、樫村愛子氏の『若者たちのポストモダン的な共同性』を踏まえた古谷さんの文章は、この海の家の音楽を考えるのにとてもよい文章だったから。

  
 ラジオで確認してもらいたいのだが、90年前期のある意味で強力になっているオアシスの音楽は、偽日記でいうところの「若者たちのポストモダン的な共同性」を性質をよく出していると思う。


さて、「若者たちのポストモダン的な共同性」とは何か?

「そこでは『繋がっている』というメタ・メッセージのみを常にやり取りすることで、人工的な共在空間を構築するという関係性が描かれていた。この時に必要とされるコミュニケーション能力とは、その場の空気をすばやく察知し、自分や他人の自意識(承認の欲望)を鋭敏にかぎ分けて、それを『笑い』などによって巧みに脱構築するような能力であろう。(『承認の欲望を解体する能力』こそが他者からの承認を得る。)この能力は、その場で最も高い「効果」が期待されるボケやツッコミを瞬時に繰り出すことの出来るパフォーマンスの能力であり、このような能力によってある共同性がかろうじて維持される。このような関係性は、自然な(制度的な)支えが希薄なために常に不安定で、まさに高度なコミュニケーション能力によってのみ支えられている」(偽日記11/23) 

 
 このような「高度なコミュニケーション能力」によってできた音楽として、私には聞こえたのだった。
 実はこの海の家はかつて、芸大出身のデザイナーや絵描きが多く関わっている。「美術」で学んだ高いコミュニケーション能力を核にして、「若者たちのポストモダン的な共同性」が作られていたのだろう。作品が大切なのではない、共同性が大切なのだ。そのため作曲は行われず、場を盛り上がらせる即興的な音楽となる。
 
 しかし、ここに奇妙な特徴が浮かびあがる。それは「音」だけだという事実だ。
「『繋がっている』というメタ・メッセージのみを常にやり取りする」ために「音」が即興的に交換されるのだが、メッセージとしてのまさに「言葉」は「立ってこない」のである。

 
 80〜90年代中期のオアシスには個性的な楽器奏者はいたが、ボーカリストが出ていないという事実。OKIという強いボーカリストになれる資質をもった人物は、ここでボーカルの位置につかず、自分の血を意識したアイヌミュージックを歌うべく北海道に行ってしまうということに注意。

 
 かろうじて言葉=唄が全面に出ていく場がある。今でもこの時期のオアシスを表現しているイベントだ。夏の1日だけ行われる「ボブ・マーレィSONGS DAY」。ボブ・マーレィの唄を歌う独特な「のど自慢大会」なのだ。バックはジャパニーズレゲエの現在の核、HOMEGROWN。優勝者はジャマイカにいけるという、参加するととても楽しいお祭りである。このイベントは、オアシスの「高度なコミュニケーション能力」ボケとツッコミをものすごくうまく表現している。カリスマの言葉を承認し、その瞬間、ボケをかまし、東京あたりはそこで終わるが、ここでもう一度宙返りさせて、わかる人だけが集まる「ある種の共同体」の祭りとして感動させるという手口。

 
 ここで注意したいのはボーカリストのカリスマ性が排除されると同時に、祭りは脱臼させられず感動的なものになってしまうこと。オアシスの場の力の特徴がここにある。都市であると同時に自然の場である、私が注目する「海辺」という場所がそこにある。

 
 「高度なコミュニケーション能力」によって交わされる音楽。言葉が立たない世界。
90年代中期、その「若者たちのポストモダン的な共同性」に、夥しい「言葉」を放つDJたちが飛来してくる。

 
 それまでの音楽が、バック音楽に一挙になってしまうのだ。


 このDJたちの「言葉」に力があるのではない。彼等の新たな「言葉」と「音」の関係性が、切断の刃となったのである。その刃が成熟していたオアシスの人々の「高度なコミュニケーション能力」を切断したのである。

 
 しかし、こういう論考はある意味でよくある語りでもある。「はてな」でものを書く大学関係者などにすごく多そうだ。「切断」なんてさも使いそう。こういった考えには、大学とは遠く離れた力仕事関連の考え方をいれたミキシングが必要だろう。

 
 言葉がたたない音楽性には、友人の画家Dいうところの「レゲエのサウンドはハートビートであると同時に都市のノイズ(ダンプやショベルカーといった最下層の音)の音楽化」だったという特徴がある。
「その柱はドラム&ベースで、なんだかんだいっても中産階級音楽のロックのギターとボーカルがフロントで、ドラムとベースはそれを支える下層階級というヒエラルキーが逆転してる」
また「都市の最下層のノイズの音楽化のさらなる昇華/極致としてのダブ」ということも注目しなければならない。

 これも理屈ぽいが示しているのは力仕事的世界の展開がある。ありがとうございますD! もっと語りあおうね、海辺で。

  
 つまり、レゲエがもつヒエラルキー逆転の音楽性の空間的表現として、90年前期のオアシス空間があったという「ものの考え」も入れ込んでおこう。このようなミキシングをする必要があるんじゃないかな。

 
 90年代中期、この海の家の音楽ががらりと変化する。それはオアシス音楽史PART2の世界だ。いつ録音しよう。このPART1 を再構成しながら、収録していこう。