画家Dのコメント

 画家Dより「コメントがうまくできないので、メールを送る」とのこと。
メールありがとうございます。
以下、そのメールをペーストしておこう。


『hi-roさん、tanabさん、どうも。
海辺からいまは季節労働的に八丁堀に通ってるDです。
えーと、まず「窓辺の構図」の背景ですが、そもそも西欧近代絵画自体が「窓」的で
あるとはいえるのかもしれません。”窓辺の構図”でぱっと思い浮かぶ画家は、デュー
ラー、レンブラントフェルメール、マネ、マティスエドワード・ホッパー、ホッ
クニー、バルテュスワイエス、リチャード・エステスといったところ。やはりオラ
ンダにおける市民御用達の室内画というジャンルの発生において、窓辺の構図は自覚
的に扱い出されたのではないかと思う。あと窓辺で思い浮かぶのは、デュシャンのフ
レンチ・ウィドウという窓枠のオブジェとか、それこそ大ガラスとか。窓じゃなく扉
だけど、最晩年の覗きボックス『(1)落ちる水、(2?照明用ガスがあたえられた
とせよ』とかね。「窓辺の構図」で西欧美術史の本が一冊書ける、という世界でしょ
うね。
それにしても、hi-roさんの考察は個人的に非常にツボにはまるなあ。tanabさんもそ
うかあ。
「海辺のナルシス」というフレーズが頭に浮かびました。”湘南”に関しては「海辺
の粋」という観点もあるかもと思ってます。「雅」と「鄙」の逆転というかね。”湘
南”には、俺達は東京人よりよっぽどススんでるという自意識を抱いた人々がいっぱ
いいる。それってヨーロッパ-日本の関係とも、いまのアニメ・マンガ・ゲームのジャ
パン=クールというジャポニズムの問題とも繋がってくるように思う。僕らはもとも
ポストモダン脱構築済)=ヨーロッパには見るべき物はもうない、という旧来の
欧米崇拝のネガポジ反転的な自負、、、。
いけね、長くなってしまいました。
仕事帰りタグチファインアート行ってきましたよ。チェコの前衛写真、ぐっときまし
た。
また。』


 ふむふむ、勉強になるね。「オランダの市民御用達の室内画の発生あたりで窓辺の構図が自覚化されのたのでは」とはというところは興味深い。そこからセントアイヴスの窓辺までの、外界と室内のコントラストの推移の歴史を見てみたいな。たしか近代美術館・葉山は来週から展示の入れ替えでしばらく休館になってしまうから図書室は使えないので、ちょっとその勉強は2月からということになってしまうのだけど。
(2月は海辺の道を歩いて、あの図書室通いをしたいな。)


 その歴史から補助線を引いて、たとえば森戸海岸の海辺のレストラン「オッティモ」の窓辺まで伸ばしていきたい。その窓辺には葉山に住むブラジル人画家の絵が描かれている。その絵はレストランの室内でどのように使われているのかを考えてみたい。実は今日その画家Wとそのレストランで落ち合って、彼のアトリエに行ってきた。(楽しい時間でした!)彼の作品に展開する海のイメージもまた興味深いのだが、ここでは話しがごちゃつきそうなので、ベン・ニコルソンから発生する問題点をもう少し整理してから語ってみたい。