ベン・ニコルソンの構図/海辺の人々のイメージ

 この海辺の街に住む人間たちに大きな刺激を与えてくれる画家の作品がやってくる。


 画家の名はベン・ニコルソン。実はそんな画家のことを知らなかった。
日曜日に久しぶりに会った画家Dに教えてもらった。


 近くある神奈川県立近代美術館・葉山。そこでベン・ニコルソン展が2月から開催される。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2003/index.html


 県立近代美術館のスタッフも相当な決め技をもってきたものだ。
その絵は、この海辺の街の住民が陥っているイメージの構図に切り込むような、絵画の構図をもっているからだ。


 たとえば、
県立近代美術館のサイトでも見ることができるベン・ニコルソンの絵「1947.11.11(マーゼル)」


 いくつかの色彩や質感の断片が合わさってできた機械のような物体と、向こう側に見える海や海辺、山。
その機械は、キュビスムの運動する視点によって見られ再構成された物体だと認識できるものだ。しかし海や海辺、山は、そのような美術史に深く関わる視点によって見られることも再構成されることもなく、ただ広がる光景として、(印刷物やサイトで見る限りでいえば)凡庸に平面的に描かれている。


 この手前の物体と、彼方の海とに、認識/構成の違いをつくること。
その企てが、海辺に住む者に大きな意味をもたらすのだと思う。


 水曜日、海辺の道を歩いて美術館に行き、その図書室でべン・ニコルソンの画集を見てきた。その他気になる本をぱらぱらとめくっていたら、こんな文章に出会った。


 瀧口修造がニコルソンについて書いた言葉だ。
「ニコルソンは一つの画面のなかにさえ風景や静物と純抽象形態とを同時にえがいているが、それは彼にとって折衷ではなくて(ハーバード)リードによれば、現代の個人の心理にはおそらくウォリンガーなどの「空間畏怖」による抽象芸術の原理だけでは説明のつかない自然主義的な様式をもたらす肯定とアブストラクトな様式を生む外界の拒否との複合したタイプの芸術の可能性があるといっている」(「戦後のイギリス」より 『コレクション瀧口修造8』)


 大切なことは具象と抽象の折衷ではなくて、対象によって選択される認識/構成の違いなのである。


 ニコルソンが好んだ構図のひとつに「窓辺の構図」があった。
前景にテーブルがあり、その上に花瓶や皿など日用品が置かれており、奥に海を見渡すことができる窓とカーテンがあるといった構図だ。
その構図で描かれた作品は、まだ、彼の絵を多く見ていないから決定的なことはいえないが、数点の作品を見て想像するなら、テーブルの上の日用品は抽象的に描かれ、窓の向こうの海は半具象で描かれたものだろう。


 たぶんこの窓辺の構図は美術史的に、しっかりとした背景のある構図に違いない。
(誰か、何か知っていることがあれば、教えて下さい)
近代的自我を確立する時、あるいは超越しようと試みる時に、窓や風景に開かれていく部屋というイメージも大きく関わるだろう。
いや、彼にとってはもっと具体的な問題が影響しているのかもしれない。窓の外が具象的で部屋の事物が抽象である構図は、抽象表現がなかなか定着しなかったイギリス美術とも深く関わっていただろうし、ケルト文化を背景にした物語化しているイギリスの自然の問題、ニコルソンがこうした作品を描いていた海辺の街セントアイヴスにあった芸術家コロニーの中の保守派と革新派の軋轢とも関連しただろう。


 こうした具体的な問題から美術史的背景まで踏まえて、ベン・ニコルソンは、あるひとつの決意をもって、この構図を選んだのだと思う。その決意を、90点の作品が並ぶ展覧会を体験することによって知ることになるだろう。


 今、展覧会前、私は美術館のあまり大きくない図書室で画集を見ながら、ベン・ニコルソンの決意を、海辺のことを考えている自分のことをだぶらせながら、一人で想像してみた。


 図書室を出て、想像した言葉を、私はレストランの横を通り抜け海に面した美術館の庭でメモしてみた。
「人が作り上げた物体、事象は、ある力学をもった構造をもっている。その構造は色彩やフォルムによって変化させることができ、物体や事象を革新していく可能性をもつ。それは個的な視覚で認識された色彩やフォルムによっても変化し、まったくその人間だけに意味のある構造になっていく可能性ももつ。
だが、自然は同じようなある力学をもった構造をもっているにも関わらず、その構造を個的な視覚で認識された色彩やフォルムによって変化させることはできたとしても、構成されできあがったものは、自然からはほど遠く、誰にも意味のないものになりはてている。万人と対峙している自然の構造、万人をも巻き込む自然の力とはまったく違うものになっている。


 しかし問題は自然を描写することではない。自然の手前にある人間の世界の表現を随時革新することによって徹底的に人間的にすること。自然を(表現の個性化に傾いていく具象表現からなるべく離れるようにして)万人がもつ凡庸な表現でとりあえず描くこと。その閾を明確にすることだ。


 大切なことは人間の世界と自然を明確に区別し配置すること。窓枠を徹底的に意識化することなのだ」


 この決意の言葉が、実際のベン・ニコルソンの決意とどのように重なるのか、あるいは違うのかは、もう一度いうが展覧会の体験で確認できるだろうが、
「人間の世界と自然を明確に区別し配置すること。それを区別する窓枠を徹底的に意識化すること」は
彼の明確なメッセージのはずだ。


 このメッセージは、海辺の人間たちに大きな意味をもつものだと思う。


 話をわかりやすくするために
葉山で写真を撮っている人、イラストを描く人、エッセイを書く人について書く。この人たちが表現する「葉山」で多いのは海のイメージを人間の生活に引き入れすぎている「葉山」なのだ。


 たとえばの話だが、
サーフィン、ウィンドサーフィン、カヤックなどをしている表現者がよくしてしまう行いとして、生活にマリンスポーツをとりいれていることと、海のイメージを人間の生活に引き込んでいることを一緒くたにしてしまうことがある。
 
 
 そのため人間の世界についての認識が、まるで自然描写のようになってしまう。それもまだらの自然描写で、たとえば生活の中にぽつぽつとある「個別の気持ちのよいこと」がまるで万人に対峙し、万人を巻き込む普遍性のような形で(それもさりげなくすることでより巧妙に普遍性をもって)描かれてしまうのだ。
そして結果的に、人間の世界への認識/構成の方法は随時変化でき、世界の構造は変革できる可能性があることを忘れさせてしまうのだ。


 たぶんこれは表現者だけの問題ではない。この海辺の街の人は、多くの人が、海を代表とする自然のイメージを人間の生活に引き入れすぎている(しかも、そのイメージの混入にどこか飽き飽きしているようだ)。


 ベン・ニコルソンの絵画は、その自然のイメージの侵入を氷らせる力をもつ。そして自然と人間の世界の境界線を明確に引くことの大きな意味を教えてくれる。