ラジオについての後書き

 葉山という小さな地域を対象にしたインターネット
ラジオで、海の家をテーマにした放送をした。地域レ
ベルでは多くの人が聞いているようで、私自身だけの
ところでいえば、拙い話を聞いていただいて本当にあ
りがたい。

 
この放送に関するいくつかの反応があった。その一
つに、この小さなコミュニティの人々が語りあうイン
ターネットのBBSで、昨年の夏の終わりに話題になった
「2003年夏のオアシス問題」が再燃したことがある。

 
ここでいう「2003年夏のオアシス問題」とは、昨年
の夏の終わり、海の家オアシスに予想外の数の客が集
まり、駐車、騒音、町の雰囲気の変化などのことで、
いくつかの問題点が発生したことをいう。

 
再開した議論には、考えさせられる意見がいくつか
あった。ここでは、このblogに関わると思ったものだ
け触れてみる。

 
タイトルに「海の家文化」という言葉が使われてい
たし、自分もそのような方向で語っていたが、そのBBS
では、そんなものは「文化」などではない、あるいは
「文化」といった時に思考停止になってしまい「2003
年夏のオアシス問題」の議論が進まなくなってしまう、
という意見があった。

 
ここで私は、「文化」とは、決して上等な物事ではな
く、いや物事ですらない、ということだけ語っておきたい。

 
かつて「文化」というと、近代日本が学ぶべき「西欧
文化」であったり、あるいは偲ぶべき「王朝文化」とい
う形で使われているような言葉だった。文化は何か本質
をあらかじめもっているものとして考えられていた。だ
から学んだり偲んだりしたのだ。

 
しかし、1960年代以降、「文化」を扱う仕方が変わっ
てきた。「文化」とは意味をめぐって人々が闘う地平と
考えるようになってきた(民族解放闘争、女性解放など
の各種闘争、構造主義などの学問の成果、交通の発達に
よる多文化主義の大衆的確認などの影響が大きい)。ロ
ック文化といえばロックという闘争の場という意味であ
り、そこでは、たとえばヘアースタイルをめぐって大人
と若者、レコード会社とミュージシャンが、意味やアイ
デンティティを賭けて闘うことが行われたのである。

 
だから海の家文化という言葉は、海の家に関連する物
事の意味を考えたり議論したり、その意味を自分の生き
方と深く関係づけ、人と闘ったり仲良くなったりする地
平があるということを示す。もちろん、そんなものを考
えたり闘う暇はないと思うことはできる。親に公認され
産業にしっかりなっているロックをロック文化として語
る時間などないと考える人も随分いるだろう。それと同
じように海の家のことなど考えたくないと思っている人
がいてもいい。しかし、それは自覚的にその地平に近づ
かないということである。

 
くりかえすが、「文化」はあらかじめ本質があるもの
ではない。その意味を考え他人と議論したり闘ったり和
解したりする地平にすぎない。このような認識はここ数
十年で一般的になり、だからこそ、今多くの人々が映画
や道路、駐車場、電車での振舞い、小説、食べ物など多
くの物事をインターネットのBBSで語りあい、こうして
blogで発言し読み込んでいるという行為をしているので
ある。

 

さて、「2003年夏のオアシス問題」に関していうなら、
私はラジオでいったように店側が「成長管理」をした方
がよいと思う。「成長管理」というのは、人気があがっ
ていき、人が急激に多くなっていく流れをゆったりした
流れにすること、決まったスペースに楽しく、近隣に迷
惑をかけずに集れる人間の数を考え、その方向に向かわ
せることだと思う。

 
またオーディエンス文化について、もっと語りたいと
思う。今の若者は、というよりは、昔からオーディエン
スは集まれば集まるほど酷いことをし、カッコ悪かった。
よいミュージシャンはその瞬間によい音を出すだけでな
く、全体の構成を考えているものだが、オーディエンス
も全体の構成や空間を考えて振舞うべきである。

 
ただし、「成長管理」に関する個別的具体的な提案は、
オンラインでは行わない。これらは直接的利害関係に関
わるものなので実際に相手に会って話したい。

 
オーディエンスの心得としては、そば屋もライブスポ
ットも行列ができるようなスペースには車で行かないこ
とである。田舎では自動車が自転車替わりになってしま
っているが、人が多く集まる種類のライブとは都市文化
(都市には自家用車が必要ない)であるということをし
っかり確認した方がいいと思う。

 
そして葉山あたりの海辺を、私は都市の周辺部分と考
えている。