写真の肌理と奥行き

3月8日の朝日新聞の夕刊の美術欄は、大西若人が宮城県美術館の「コモン・スケープ」展という写真展について書いていた。60〜70年代生まれの写真家を中心とした写真展らしいが、気になることを書いていた。
「じっと見てゆくと気づくのは、多くが奥行き感に乏しいということか。例えばホンマ(タカシ)の、奥にいくほど狭くなる歩道の正面に立つ高層棟という図柄すら、どこかフラットに見えるのだ」
という文章、そして新聞に掲載されたホンマの写真を見ると、このところ気になっているあの雑誌「X-knowledge HOME」のデザイナー角田純一が選びだしていたような写真、奥に建築物があって手前にごちゃごちゃした葉をもつ樹木が立っている構図の写真なのである。
そして大西は書く。
「かわりに、歩道なら歩道、植生の混乱した樹木ならその種類ごとの、色や素材感、肌理が意識される」


大西は「奥行き」を求めないことによって、「肌理」が表現されていくことを語っている。


では、角田の、写真の一部をコピーして繋ぎあわせる行為は何なのか?
(何いってんだかわかりませんよね。この日記を参照してください
id:hi-ro:20031209)

手前の植物の「肌理」と数枚の映像コピーが連ねられたことよって運動性を感じさせるような「奥行き」といった二重構造は?


「コモン・スケープ」展に出品しているような、「奥行き」がなく「肌理」が表現されていくような写真家たちの批評行為としてあるのだろうか。


しかし角田が新たにADをしだした雑誌「FOIL」はつらいなあ。勢いが出てきたデザイナーには、明確な思考のパターンを連続的に出すことができる編集者集団が必要なのに。思考パターンとして写真選びを連続的に的確に明解に行う編集者がいないといけないのだが……。


さて、私がここで何をやりたいのかといえば、写真論でも雑誌論でもない。「手前の植物と向こう側の建物の二重構造」の構図を考えることによって、都市生活と海が隣接する現代の海辺というスペースを見てみたいのだ。


人間の生活の外部が常にある生活。
内側の力が強くなる季節、外部の力が強くなる季節。その循環を知ること。