『ビーチの社会学』読書ノート3

『ビーチの社会学』(現代書館)第8章「トラブルを中和する」になってやっと著者のビーチ論が浮かびあがってきた。ビーチではトラブルが起こる要素がものすごく多くあるにも関わらず、トラブルがそれほど起こっていないこと。そのことに対する考察が行われる。

その要因は二つあり、ひとつは、ビーチに来ている人が、そこをリラックスするためにきた場所だと思っていること。
もうひとつは自分のテリトリー外への無関心。
その二つ著者エジャートンは挙げている。

後者について考えてみよう。
「人々がビーチについてまず最初にすることは、砂浜の一区画を自分の場所だと主張することである。彼らはビーチ・タオル、毛布、それにビーチ用具や脱いだ服などでこの領域に目印をつける。タオルで目印をつけられた領域とその周辺五、六フィート(1.5〜1.8メートル 引用者註)の砂浜部分は、その人もしくは一緒に来たグループの場所、つまり縄張りになるのだ」

テリトリーができると人々は、自分だけの世界にひきこもる。
ある年輩の男がいう。
「皆自分のことだけで、他人はどうでもいいのさ−−戦争だってビーチにくればおさまるだろうよ」

このテリトリー外に対する徹底的な無関心さが、トラブルを起こさせない作用、トラブルを増幅させない作用になると著者は考える。と同時に、起きたトラブルを無視してしまい、暴行や窃盗などの被害者を助けたり、加害者を捕まえたりすることをしない作用にもなっていることを指摘している。


この章では都市について語られないが、都市ではどうなのだろうか。このテリトリーづくりがうまく行われないのだろうか。

鳥の鳴き声はその声が聞こえる範囲がその鳥のテリトリーであるという。他の動物も何らかの行動でそのテリトリーを示す。人も同じように何らかの行為でテリトリーを示す。
多分都市では、その行為がわかりづらくなっているのだろう。

私の家の裏には林があり、キジやウグイスがよく鳴いている。今は庭の樹木にトンビが巣を作っている。このトンビのカップルは朝早くから枝をもってきて巣作りのために働き、時にものすごく仲よさそうに体を寄せあう(なんだかとてもうらうやましそうに見ている自分を発見して、ひとりで照れていたりするのだけど)。こうして書いていてもトンビの鳴き声は聞こえる。(すべての鳴き声がテリトリーの主張ではもちろんないのだけど)


人間にとって、ビーチとは、鳥が鳴くようなことができる数少ない場所なのだ。


では、そのようなビーチで「海の家」とは何か。
このテクストでは、バーが
「誰にでも他人を会話に参加させる権利があり、他人のほうも対応する義務がある場所」として規定されている。


ニュースタイル海の家は、「海水浴にきた家族のための場所」が転用された「海辺という環境にきた個人のための場所」だ。


テリトリー、無関心、会話する権利と義務の場所。