熊本現代美術館について

次の日は、熊本現代美術館。素晴らしいスペース。芸術文化に関する本がずらっと並ぶ本棚、その本棚に仕組まれた仕掛け(本棚に入り込んで本を読むような子供心をくすぐる仕掛け)、その前に設置されたとてもリラックスできるソファー。そこに座って、音楽に関する本をゆっくり読む。


さらに子供たちが遊ぶ空間と現代美術の作品が置かれたところがうまく隣接、あるいは重なりあっていいるところも素晴らしい。何故素晴らしいのかといえば、子供たちがゴキゲンになれる場所はよい場所であるという単純な理由と、子供と現代美術館の連なりはとても大きなテーマであるからだ。現代美術というのは歴史を意識した表現形態である芸術の中でもとりわけ徹底的に意識した表現だ。その現代美術の作品と、歴史とは触れえない神話的想像力を使った子供あるいは精神障害者たちが作る表現が近似していることには大きな意味があると思う。ピカソの絵と3歳の幼児が描いた絵が似ていると同時にまったく違うと思える二重性、その二重性を生きるには歴史的想像力と神話的想像力を常に隣接しておく強靱な生命力が必要だ。現代美術と子供の表現の隣接を用意するということは、強靱な生命力を経験する場を都市住民に用意するということなのだ。


ギリシャの都市住民にとって必要だったギリシャ悲劇がコロスと登場人物たちの隣接によって発生した経験であるのと同じように、子供と現代美術の作家の隣接による壮大な経験の場は、現在の都市住民にとって必要とされるものなのだと思う。


熊本現代美術館の6月の展示は、「生人形と松本喜三郎」。幕末から明治になっていく時代、「見せ物」としてあった「生人形」。生き写しの人形は、彫刻とどう違うのか。
そして来年は、横尾忠則が熊本ブエノスアイレス化計画を行う展覧会。この熊本現代美術館、都市の壮大な悲喜劇を生み出す場を作ろうとしている力を感じた。私、この美術館に惚れました。