ラジオの学校とテレフォン・ドローイング

hi-ro2004-10-19


この絵は、ラジオの音を聞きながら描いた私の「イタズラ描き」である。
日曜の夜、神保町の古書会館の「アンダーグラウンド・ブック・カフェ」という古書フェアで「河内紀トークライブ『実況生中継 ラジオの学校』」というイベントがあり、それに参加し、そこでラジオの番組を聞いたのだ。
なぜラジオ番組がというと、河内さんは現在映像ディレクターをしているのだが、60〜70年代、TBSでラジオ番組を作っていた方なのである。その頃のことを書いた本が『ラジオの学校』(筑摩書房)だ。河内さんは古書好きとしても知られているようで、その流れで南陀楼綾繁氏が司会をする河内さんのラジオ番組と話を聞く会が開かれたようだ。


私は古書も新刊も物質としての書物には興味はなくて、こういった古書フェアにいるだけで飽き飽きしてしまう。ただし「読書体験」には、執着している人間なので、綾繁氏のひたすら逃避するような読書の仕方や、酒を飲んだり飯を食べたりしながらその快楽を倍加するように読む読書などに、とても共鳴していて、彼の書くものがとても好きなのである。
河内さんの方のことをいうなら、この方の発言の中にちらりと見える、本を読むことが好きなのに、同時に音としての言葉に魅了されているところが、とても気になっている。また言葉を記録する時に、そこから抜け出ていってしまう途方もない何かに、耳をすませようとしているその姿勢が、たまたまお話をした時に感じることができ、共感してしまったのである。
そんな二人が出るならば行こう、と思った会なのであった。


さて、河内さんが60年代から70年代に作ったラジオ番組を聞いた。その時に自分でおもしろいことをし始めた。ラジオを聞きながら、その時に配られたレジュメの裏側に、無意識的にイタズラ描きをしだしたのである。
実は私は会議などで、こういった絵を描くのがとても好きだ。こういうことをするのは、自分が集中力が足りない仕事人間には向いていない性格であるということが大きいが、もうひとつ、屁理屈をいうなら、人が話す音がもっている途方もない何かに感応しようとしているからである。


ふと今、思い出したのだが、シカラムータ率いる大熊ワタルの本『ラフミュージック宣言』(インパクト出版会)に、大熊は「テレフォン・ドローイング」と呼ぶ自作の絵を載せ、そのことについての文章を書いていた。「電話をしていてふと気がつくと。ボールペンを握りメモ用紙だのカレンダーなどにわれ知らずミニマルなパターンを書き連ねている」そんな行為で描かれた絵がテレフォン・ドローイングである。


大熊はこうした電話の声に耳傾け、あるいは声を出している時、同時に描かれていく絵を「ある種即興演奏の感覚に近い点など、僕には興味深いものがある」と書く。チンドン/パンク/ジャズの経験を生きる大熊は、こうしたイタズラ描きも、自分がクラリネットで音楽することと同じ、音と戯れる行為のひとつとして捉えている。


私が、あの夜、ラジオ番組を聞きながらイタズラ描きをしだしたのは、言葉の意味を頭で整理して聞くのではなく、音と戯れるようにして、その言葉の意味をただ受けとめたかったからだ。


河内さんはある文章でこう書く。
「目で編集することに馴れた(現在のテレビ制作者である−引用者)彼らは、人間がしゃべるまえに息を吸うことを忘れている。ことばになる前の息遣いもまたことばだということに気づかない。クリアで聞き取りやすいことば、意味が明解なことばだけを拾い上げようとする。
相手が語りたかった本音、生きたことばの本当の『なかみ』を知りたければ、目だけではなく、耳を大きく開いていなければならない。ことばはしゃべるひとそれぞれによって、しゃべる道筋、リズム、間、すべてが異なっているはずなのだから。
・口ごもる『間』を カットするナカレ
・矛盾したことばを整理するナカレ
・まわりくどい言い回しをわかりやすくするナカレ
これがラジオのころ、私が自分で決めた、生きた言葉を編集するための『ナカレの原則』だった」(『月刊 民放』2004年5月号)


河内がナカレの原則によって掬いあげようとしているのは、音声言語の支離滅裂さなのだと思う。その支離滅裂さを手を動かしながら、私は感じていたかったのだ。

前半は、詩人の木島始の原作・脚色によるラジオドラマ『夜の呪文』。津軽弁の研究者が登場するドキュメント『ことばの交差点』(このサウンドが興味深かった)などを聞いた。


後半のゲストとして、鈴木清順が登場し、彼が脚本を書いた『ヤング・パンチ・シリーズ』第一作目と、「ラジオ武士道 葉隠」などを聞いた。
私は高田渡とかこの鈴木のような若くしてニセ老人をしてしまった者、人をはぐらかすような答をする人間がどうもダメだ。また、そのような発言に歓ぶファンにもちょっと……という気持ちが。鈴木などのそういった話し言葉には「戦略」だけがあり、耳を澄ましたくなるような「自由闊達さ」がないので、自分には物足りない。ファンもまたキャラクターという目で掴む編集をして声を聞こうとしていない。まあ、ファンというものはこういう者だからしょうがないとは思うのだけれど。


聞いていて、ラジオドラマ製作の難しさを感じた。と同時に、ものすごい可能性を感じることができた。