土方巽が登場するフィルムの断片を見る

横浜・馬車道にあるBankARTの イベント「舞踏の火、舞踏の華」の中の、舞踏家・土方巽の映像を見る上映会にいってきた(10/22)。
実は、西江孝之の映画「臍閣下」(1969年)が上映されるということを知って出かけてみたのだ。


この映画は「孫悟空の物語を土台に、核時代に生まれ育ったエロス(八戒律)、 テロス(悟空)、グロス(悟浄)の妖怪三人組が精力絶倫の臍一族の支配者・臍閣下に挑戦するという現代の暗黒を卑猥と哄笑のうちに描いたグロテスクな喜劇で主演は榎本健一、ナレイションが徳川夢声」(日本映画監督全集76年版 キネマ旬報社)といった作品である。


人は「兄弟」ということに何かしらの思いがあるのだと思うが、この西江孝之は特異な文化人類学者、西江雅之の兄であり、「西江兄弟」というのは私にとって特別な兄弟としてある。雅之氏は昔、吉祥寺あたりでよく見かけたのだが、どう見ても日本の人の歩き方ではない、背をすっと伸ばして、草原をマサイの戦士がゆっくりと優雅に歩くような姿を見ていると、近鉄デパート前が、彼の研究のフィールドであるアフリカの、そうナイロビの街路にでもなっているように思えるのだった。また、孝之氏にも接したことがあるが、エネルギーの発し方は尋常ではなかった。釈迦を巡るドキュメンタリー映画製作を経て、現在は確か銚子の方で仏教に関する研究をしていらっしゃるはずだ。多分、この方のことだから、ものすごい論文が将来発表されるのではないだろうか。


その西江孝之氏が若い時に作った映画が「臍閣下」。前から見たかった映画だが、権利関係で映画が上映されることはないので、見ることが出来なかった。多分、金銭的な問題を巡る裁判か何かが過去に行われ、この映画全体は上映が禁止されているのではないだろうか。今回も土方が踊る断片だけが上映された。その前後にエノケンの登場シーンを極く短くではあるが鑑賞することができた。やはりそこには不思議な映像空間が構成されていた。


洞窟の中がちらりと覗けるのに、入っていけないこと。全体を知りたいのに、全体を巡ることができない自分の位置。しかも、洞窟の入り口には、一人の不吉なダンサーが踊っているということ。作品内容や権利関係がどうのというより、このような作品体験をしてしまっていること自体がとても不思議だ。


映画作家であるから映画全体を観客に見せたいとは、当然思っているだろうが、このような鑑賞体験を観客に強いてしまう西江孝之は、やはり特異な映画作家であり、あの「西江兄弟」の兄なのだった。


映画体験ということでいえば、今回は土方が登場するフィルムの断片を、さまざまな映画から抜きとって上映するというものだが、やはり断片をいくつか見ていくこと自体が興味深い経験だった。1本にまとまっている映画作品というパッケージを壊し、あるシーンをひっぱりだしていくと、きっちりとしたモンタージュで構成されたひとつのシーンが、ほどけていく、溶けていくようなところが出てくる。その溶けたところは、まさに「あらゆる可能性がいっぱい」のところだ。


この「あらゆる可能性がいっぱい」のところに身を浸していく感覚は、パッケージされた映画作品や書物では体験できないことだ。


上映された映画の中には、大衆娯楽的な映画作品もあり、その中で土方は首斬り役人や、悪の権化のようなグロテスクな人物に扮して登場したりするのだが、そこにいるのは、私たちが今知っている舞踏の創始者の土方ではない。まさに大衆に徹底的に差別され排除されている芸能者としてスクリーンに存在していた。大衆娯楽映画のもつ差別意識の正直さはものすごいもので、唖然とするしかない。こうした娯楽映画の何本かを、見ているうちに、実は私は、うら寂しい気持ちになってしまった。


空間モノに興味をもっていると、時々あることなのだが、自分が好きな建物やある場の雰囲気が、すっぽりと差別の構造にはまり込んでいることがある。職業差別や地域差別にぶち当たるというよりは、自分の嗜好が、差別の構造を裏側からなぞるような仕組みになっていて暗澹とした気持ちになることがある。こういう時は、そこから離れるのではなく、その場所で少しとどまることが必要だ。人の幸福とか未来への希望とかいったものを、そこで、よく考えなければいけない。


愚劣な大衆芸能の闇の中に迷い込んでしまうこと。時には、そんなこともあることなのだ。