地震と チャペック

今週は、同じところに続けていく仕事があった。カメラマンが2度、少しだけど遅刻した。カメラマンの御両親は、今回の地震の被災地に住んでいる。みんなそのことを知っているから、「さあ、急ごう」といって取材先に出かけた。


今ごろ、そのカメラマンは水を車にたくさん積んで、故郷に向かって走っている。


今朝、起きてからすぐに本を読んだ。寝ぼけ眼で布団の近くにある本を何でもいいから読むという仕方はけっこう気に入っている。事物としての書物が書物としてうまく認識されず、選択もしようもなくテクストが目の前にあり、それがなだらかにぼんやりした頭の中に入っていく、その事態が好みなのだ。


「トーキョウを破壊しヨコハマを水浸しにし、フカガワとセンジュとヨコスカを火の海にし、アサクサを粉砕し、カンダとゴテンバとシタヤをめちゃくちゃにし、ハコネを崩して平にし、エノシマを呑み込んでしまったこの震動は、これらの異国的な名前が語るほどわが国から遠くで起こったのではない。それは近くのことだ。それはわれわれの心が届く範囲で、おそらくおそらく、援助の手が届く範囲だろう」


起き抜けに、こんな文章を読んでしまう。これはカレル・チャペックだ。彼が私たちの国についての地震について書いている。今回の地震のせいだろうか、時代のことを抜きにして、遠いチェコカレル・チャペックが、日本の地震について書いていることに、寝ぼけながら心動かされている。



1923年、チャペックは関東大震災について書いた。彼は1920年代、「ナーロドニー・リスティ」や「リドヴェー・ノヴィニ」という新聞にコラムを寄稿しており、そのコラム記事を集めて編集された本が『いろいろな人たち』(飯島周訳 平凡社ライブラリー)だ。街に住む職人たちや奥さんたちの描写がとても素敵で、私は何度も読んでいて、昨夜も眠る前に読もうとして布団の傍に起き、そのまま眠ってしまったのだ。そして今朝、たまたま開いたページがこの文章のページだった。この「ゆれ動く世界」というテクストも繰り返し読んでいるはずなのに、あのカメラマンの動揺が自分にどこか深く伝わっていたのか、強い印象を受けて読んでしまったのだった。


チャペックは書く。
「五十万か六十万の人々が建物の破片や火や水のために命を失った。デリケートな文化を持ち、疲れを知らぬ勤労の町々が廃虚となっている。おそらくそれは、世界大戦の恐ろしい災害の後ではたいしたことではないかもしれず、おまけにあまりにも遠くの出来事である。そしてそれは、われわれには理解もできず実際にはほとんど関係もない、肌の色の異なる国民を襲ったのだ。いやそうではない、それは遠くのことではない。日本で大地が震動していたその瞬間、他の国民の脚下の土地はゆれ動かなかった。ただ、それはわれわれの遊星を裂き、ゆり動かしたのである。竹のはりやたる木は、肌の黄色い、ほほえみを浮かべている小柄な人たちの家族の上に砕け落ちたのではなく、人類の頭上に落ちたのだ。地表に起きたこの波に、全世界の人間の心の波が応じないとしたら、恐ろしく皮肉なことである。心の波とは連帯の波のことだ」



昨日、昼飯の時、カメラマンと小千谷の話となった。中学校の校歌の歌詞が、その土地で生まれた西脇順三郎が書いたものだという。彼女がその校歌を、食事の最中に口ずさんだ。賑わう食堂で耳を澄ませた。「薔薇」を「そうび」と読ませる唄だった。