「小説に出ている」と松山巌さんがいった

少し前、文筆家の松山巌さんとお会いして、喫茶店で話をしていたら「自分が出ている小説がある」という。私は「おおーっ」と思った。


たまたま久世光彦さんの話になり、いくつかのエピソードを松山さんが語られ、そのうちに「自分が出ている小説」という話になったのだ。
「小説に出演する」という話は、実は、私、とても興味のある話なのです。何故なのかは後で語るとして、松山さんが「出演している」その小説を紹介しよう。
久世光彦さんが書いた『あべこべ』(文藝春秋)。久世さんを思わせる「私」の奇妙な仲間との交流の日々を、不思議な現象を入れ込みながらも、全体としては淡々と書かれた小説である。「出演していた」のは松山さんだけではなかった。奇妙な霊感をもった女優「弥勒さん」は樹木希林さん、女から食べ物まで、すべてに点数をつけて評価する批評家「穴さん」は福田和也さん、小さい頃からそれまでの切った爪をすべて缶に入れてとっている映画監督「持統院」は実相寺昭雄さん、そして松山さんは、愛宕に住んでいる骨董屋「二股さん」として「出演していた」。


オール讀物」に隔月で連載されていた連作短編ということもあり、暇つぶしに読むのに合っているというか、全対にはさらりと出来ている読み物だ。テレビ番組だったら、それこそ久世さんが演出家として作ってきた、ちょっと不思議な連続ドラマという感じのものだ。西城秀樹郷ひろみが出演しているように、福田和也さんや松山巌さんが出ているという、こう書いて初めてやはりこれは奇妙な小説かなとも思うものだ。


さてここで、私が「小説に出演する」ということに興味をもっている理由を語ろう。このblogを時々目を通していただいている方なら、ははあ、またあれかと思うだろう。そうなのです。保坂和志さんの小説『季節の記憶』を読んでいると、自分の昔の友人が出ていたという話である。小説では友人の名前はまったく変えられているというのに、友人Tの思考の形式が彼の話し方とともに、突如、読んでいる本の中で出現して面食らったという経験だ。
さらに、その読書体験から数年後、銀座の路上で20数年ぶりにばったりその友人Tに会った時、思わず「君、小説に出てたでしょ」と私はいってしまったのだった。するとTは「テレビに出たでしょ、という言葉はあるが、『小説に出てたでしょ』というのは変だよね」といって返してきたのだった。
その時の出会いが面白くて、どうやらTは保坂さんに話をしたらしい。すると、その「小説に出てたでしょ」話を保坂さんも面白いと思ったらしく、『小説の誕生』(新潮社)という評論のような小説のような本に、そのエピソードを書いたのだ。
それがまた私にとっては不思議な文章だった。その時のエピソードが保坂さんの筆によって描写されているのだが、その中の私である「渡辺」は、自分があの銀座では多分語っていないことをいっている。しかし、読んでいると、自分だったらぜったい語るであろう言葉としてそれはあるのだ。さらにその「渡辺」の言葉は、『季節の記憶』には展開されていないが、それを保坂さんが執筆することによって得られたある考えをいっていると保坂さんは書くのだ。つまり、私が現実にはいわなかったこと、保坂さんが現実には書かなかったことが、両者が納得がいく形で、テクストとして書かれてしまったのである。
こうした経験を踏まえて保坂和志さんの小説のことを考えると、どうも保坂さんは、ある人間との会話で聞いた言葉を受け入れた後、その人間の思考の展開の仕方を使って別のことを話させて小説を作っているようだ。
Aという人間がしゃべったことをそのまま書き写すのではなく、Aがしゃべった思考のシステムをとりだして、そのシステムに自分が気になっていることや、小説の展開上書いておくべきことを入れ込み、そのシステムの機能にまかせて小説の主人公Bの会話としているのだと思う。
だから友人Tが語っていない話なのに、Tだと思い、私が語っていないのに、私がいうだろうと思えたのだと、今は理解している。
これは小説家であれば、あたりまえの方法なのだろうか? 保坂和志という特異な小説家の独自の方法なのだろうか。
それを知りたくて、何かよい機会がないかと待っていたのだ。だから、松山さんが「小説に出ている」といった時、私は思わず「おおーっ」といってしまったのだった。


さっそく私は、小説『あべこべ』を手に入れ読んでみた。
……しかしだ、『季節の記憶』の蛯乃木をTだと思ったようには、『あべこべ』の二股さんを松山巌と感じることはできなかったのである。
私はTとは数年間だけどかなり親密につきあった経験があるが、松山さんとは二度ほど酒を飲み、喫茶店で二度話をし、一度向島から浅草を一緒に歩いたことがあるくらいだ。その差であろうか。
確かに、普段の松山さんの仕草や、語り口、癖、食べ方、飲み方などをそれほど知っているわけではない。しかし、実際の松山さんの雰囲気はある程度掴んでいると思う。また、松山さんがこの出版業界の中で、あるいは本好きの読者たちの中で、どのような文筆家としてイメージされているのかも、ある程度は理解していると思う。それなのに保坂さんの小説を読んで「Tが小説に出ている!」と感じたように「これは松山さんだ」とは思えなかった。


「Tが小説に出ている!」と思ったのは、T独自の思考の展開がそこに言葉としてしっかり書かれていたからだ。しかし『あべこべ』では松山さんの考えが出てはいない。久世さんは、その人の思考のシステムとかには興味がなさそうだ。
私が『あべこべ』を読みながら、思っていたことは武智歌舞伎のことだった。武智鉄二さんが作り上げた歌舞伎は、演出家という近代演劇の役割をその世界に導入しある種実験的な舞台を作っていたというが、同時に、自分が自分の好きな歌舞伎を見るためだけに作った私的演劇であったということを前にどこかで読んだことがある。殿様が自分一人で楽しみために、自分の好きな役者を集め、自分の美学によって演じさせたような歌舞伎。
久世光彦さんのこの小説も、このような歌舞伎なのだと、読みながら私は思った。
久世さんは、樹木希林福田和也実相寺昭雄、そして松山巌がほんとうに好きだった時期があったのだろう。その人たちを舞台にあげて、自分の美学に沿って動かして、目を細めている、そんな久世さんの姿が見えてくる。
(この小説に出てくるそれぞれの人物の「らしさ」のわからなさは、私たち読者がお殿様の背中からその芝居を覗き見ている従者として配置されているからだろう)
老境の手慰み、才能がない者にはなかなかできない遊びだなと、読後ため息をもらした。


ということで、保坂和志さんが小説でしていることとは、それはまったく違ったことであった。
だから私が知っている人が「小説に出ている」ことで、そのことを通して私が見てみたいことは、そこにはなかった。また、違う機会を待つことにしよう。


蛇足で付け加えれば、この小説に登場する俳優や批評家を久世さんが好きな理由はなんとなくわかる。
理解の一例を私の言葉でいえばこうなる。
福田和也さんという物書き。実は、私は福田さんのことを尊敬している。一人の女の人を安心させたことがあるからだ。『en-taxi』という雑誌で、柳美里さんと一緒にどこかへ訪問する記事があった。当時柳さんはかなり落ち込んでいた時期だったと思うが、そこで柳さんが書いている原稿を読んでいると、柳さんが福田さんによって、少しだけ安心した心境になっている感触の言葉をみつけた。
私は自分が何気なくしてしまった行為や何となく話したことで、女の人を傷つけてしまうタイプの男なので、そういうことができる男を尊敬する。私はけっこう酷いことをしてしまう奴なので、だからこそ「女の安心」にすごく敏感で、微細なところにも反応する。女の人を安心させた男を見ると、過剰に尊敬してしまうところがあるのだ。それ故に、ミック・ジャガーに捨てられボロボロになったマリアンヌ・フェイスフルを救ったバリー・レイノルズを、ロック界の中のベスト・オブ・ザ・ベスト・ギタリストだと思っていたりする! そして、柳さんに旅取材の企画で、それが短い時間であったとしても心の平安をもたらした福田さんを、柳さんのテクストの中に微かだけど感じて、私は「偉い奴だな〜福田は〜」と思ったのだった。それ以来、私は福田和也さんの原稿を読み継いで……いや、2,3本しか読んでいない……。しかし、柳さんという相当難しそうな女性を安心させるという偉業を成し遂げた男なのだから、よい原稿を書く人なのだと私は信じている。
人間通ではない私がいえることは、こんなことかな。




(写真は、能登半島珠洲市の寺家にある舟小屋。今出ている『ミュージックマガジン』1月号で、こうした小屋について書いたコラムを載せています。立ち読みでもしてみて下さい。今年のロックベスト10とかわかって、雑誌自体もなかなかいいですよ)