11月から12月へ。言葉と作業

仕事で昔の「平凡パンチ」や「POCKETパンチOh!」を読んでいる。
小中陽太郎の対談シリーズなど。そしてストリップショーに出演していた東てる美へのインタビュー。
「Q■すると、そのときは恥ずかしさが圧倒的だったわけだ。脱ぐこと即ち身も心も見られたって感じだろうか?
てる美■母の店で、お客が食べているのを見たときの感じだった。
Q ■それはどういうのだろう?
てる美■つまり、わたしは母の作った料理を、20年間、食べてきた。その同じものに、おカネを払って、みんなが食べてるのね。これはとても奇妙に恥ずかしいんですよ」


こうした昔の雑誌の記事読みをしつつ、もうひとつ探しだしたいと思っている文章がある。
多分、1970年代の週刊誌、詩人の足立巻一が書いた書評だったと思う。
沖縄戦集団自決の教科書記述問題のニュースに触れる度に「あれを探さなければ」と思いたち、最近何度も資料を探したが出てこない。
戦時中に教師をしていた人についての本だ。
自分の教え子たちに、その教師はある言葉を教える。
米軍に取り囲まれた時に発する言葉。その言葉について足立さんは書いていた。
それは日本語の音だと、子供達を何かしら元気にする言葉で、同時にその音は、米軍兵士にすれば無闇に銃を撃たなくてもいいことがすぐにわかる意味に聞こえる。
危なくなったらその言葉を発して出ていくんだと教える。
その言葉はしっかり書かれていて、読んだ時、とても関心したのだけど、その言葉が思い出せない。古い週刊誌を何度も探したが出てこない。
一つの命を救い出す二つの国にまたがった二つの意味をもつ一つの言葉。
沖縄戦集団自決の教科書記述問題は、探せないその言葉へと重みを増していく。
散歩に出る。犬が鳴いてます。「ワンワン」と「バウワウ」の間で走り抜ける犬の発する音だ。


ミュージックマガジン』のコラム用に原稿を書いている。記事掲載号が出るのは12月の終わりの方。
そうだ。暮れの数日、また築地で働くんだ。
あの朝4時からやっているコーヒー屋で、仕事をする前、自分の文章が載っている『ミュージックマガジン』を読むんだ。
ものすごく楽しそう。原稿書こう。


相変わらず阪田寛夫を読んでいる。
詩人まど・みちをについて書いた『まどさん』(筑摩文庫)。まどさんの少年時代の思い出。
「薬やかどこかの店先に立って、私はひとつの壼に見入っていた。壼のレッテルに。鐘馗さまみたいな鬚もじゃもじゃがいて、その壼を掲げている図が描いてあったのだ。よく見ると、その鬚もじゃもじゃが掲げた壼の中にも、柿の種ほどの鬚もじゃもじゃがいて、林檎の種ほどの壼を掲げているのだった。私はレッテルへ目をすりつけた。さうするとこの林檎の種ほどの壼の中にも、米粒ほどの鬚もじゃもじゃがいて、針の孔ほどの壼を掲げているにちがいないと」
というまどさんの散文詩が引用されている。
この小説の面白さは、地味な人生の限りある物語に、この壼のエピソードのような、無限パターンの話が虹を架けるように出現するところだ。


ヤン・シュヴァンクマイエルのポストカードの改訂版シリーズが出来たんだな。
今日、袋詰め作業なんてしてしまった。上の部屋で原稿書いて、下の部屋で手工業。
俺、袋詰めとか大好き。このカードについては、違ったメディアで近日中にしっかり情報を出します。


山口二郎の次の言葉を、11月の後半、何度も読み返した。大切な小さなテクスト。
「---------結局、小沢さんの失敗の根本はどこに?
山口 政党政治の基本がわかっていないと総括せざるを得ない。政党は「パーティー」であり、国民のある部分(パート)を代表する。部分をぶつかり合わせる中から、公共的な政治空間をつくる。部分から全体につなぐのが政党の仕事だ。部分を放棄した全体はあり得ない。今回の連立騒ぎは、国難とか国家の危機という全体のシンボルをふりかざして、それぞれの党の自己主張を抑えて一緒にやろうという、偽りの空虚な全体に民主党を吸収する策略だった。民主党参院選では小泉構造改革で無視され捨てられた部分を的確に集め、その主張を政治空間につなぐことで勝った。それを怠って全体に吸い寄せられてしまった」(朝日新聞11月11日)


オーディオ装置のCD部分が機能せず、最近はコンピュータで音楽を聞いている。
BUIKA、ドゥルッティコラム、あがた森魚ベン・フォールズアート・リンゼイなど。
そしてこのアートの「Noon Chill」の音がコンピュータで聞くと不思議。今までのシステムからは聞こえない音が流れてくる。
G4と相性がいいのか。いや、こいつは実は素晴らしい機械なのかもしれないと見直す。雑巾で拭う。袋入れ作業、再開だ。