保坂和志の小説に「出てた」男と会うこと

「キミ、小説に出てたでしょ?」
20数年ぶりにばったり出会った友人に思わずいってしまったのだが、相手も「あ〜あ、保坂の小説のことでしょ」とすぐに答えるのだった。
それは昨年の12月の銀座の路上のことだったのだが、その友人Tと先週新宿の店でゆっくりと話す時間がつくれたのだった。
「でも、ワタナベさん、映画に出てたでしょ、テレビに出てたでしょ、という言葉はあるけれど。小説に出てたでしょ?というのは変だよね。変に言葉に勢いがあったから、こっちもあたりまえに答えてしまったけれどさ〜」
とTはいうのだった。


考えてみれば確かにおかしな言葉だ。保坂というのは、保坂和志さんのことである。彼の小説を読んでいた時、いきなり十数年会っていないTが……そう、「出てきた」のである。あたりまえのことだけれど、小説を読んでいるとき、頭の中にしっかりとした映像が浮かんでいるわけではない。だから映画やテレビのように頭の中の画面にTが出てきたわけではない。まさに言葉として「出てきた」のである。名前も違っていた。いっている内容は、私にはまったく知らないことだった(Tにいわせると、自分は話したことがない、まったくのデタラメということである)。住んでいる場所や仕事は事実通りで、方言もその地域のものだった。
この住んでいる場所や仕事、方言によって、Tだと思ったのかというと、それはあるのだけれど、「出てきた」と思ったのは、そのためではない。小説を読んでいてTが出てきたと私が思ったのは、「Tの考え」が「出ていた」からだと思う。面白いのは、Tの考えがそのまま言葉として表現されていたのではなく、考えの展開の仕方や考えの飛び方、考えの押しつけ方が、小説に書かれた話し言葉の進み方やエピソードの展開として「出ていた」のである。


Tが「出ている」小説は何作かあるのだが、実はどんなことが書かれていたのかは、もう忘れていて、「出ている」箇所だけ、生々しく記憶に残っているのである。それが記憶に残っているから、忘却が「地」、記憶箇所が「図」という案配で「出ている」という言葉を私が使ってしまうのかな。
いや、小説というのはすらすら読んでしまうのだが、実は小説家は、ある人物の実在をこのような生々しい言葉の固まりとして書き、連ねていること、その言葉の固まりがぐっと目の前にせまったような気になって「出ている」という言葉を使っているのかもしれない。(実は、今、私はドストエフスキーの『悪霊』を読みすすめているのだけれど、小説家ドストエフスキーがひとりひとりの人物のことをこのような言葉の固まりとして造型していると思うと、読むのが辛くなりそうだ…)


もっと続けると、こんなことも考えた。
小説家というものは、もっと頭で想像したものを言葉にするのだと考えていたのだが、それはもしかしたら違うらしい、と思ったのだ。どうも、小説家は、実在するものを使って言葉を整え、それを小説の言葉にするようだ。絵描きが目の前に実在するものをスケッチすることによって色彩や線の自律性を生み出していくように、小説家は実在する人間の考え方を描こうとするのだ。画家が絵の具で顔形を作りつつ色彩の運動の自律性を生かしたり制御したり、あるいはキャンバス全体の中でのその絵柄のあり方を決めていくように、作家はある実在する人物の考え方に沿っていける言葉を選びつつ、自分の小説の言葉の自律性に方向性を委ねたり管理したり、同時に小説全体の流れということを意識しているのだなと思ったのだった。このあり方は保坂和志さんという小説家独特の書き方なのだろうか。それはわからないが、たまたまT と再会して、そんなことが一瞬見えたのだ。この見えたことは、自分にとってとても大切なことだ。もう一度あの小説を読み、またT に会ってみよう。もっと何かがわかるかもしれない。といっても、そのためにTと会おうと思っているのではない。彼は保坂氏に言葉化されるのが納得できるほどの面白い奴なのだ。二人ともゴキゲンで夜の新宿で再会を誓ったのである。