クラモト・リーディング続行中!

クラモト・リーディングの経過報告です。(7/4のテクストを参照してください)
1976年から始まったポストブック・レビューは80年代に入って、大きく羽を広げようとしている。
中期に入ってきたのだ。ポストブック・レビューの特徴は、倉本四郎が書く本の紹介文に、その作家やそのテーマに詳しい専門家へのインタビューが挿入されているところだ。このスタイル、物語に突然インタビュー場面がモンタージュされるヌーベルバーグ映画のようにカッコイイのだが、そのインタビュー部分の質が中期に入って変化してきたのだ。初期のポストブック・レビューには、作家や専門家が書物の真理を握っているという構図を認めて書かなければいけない倉本がいたのだが、この頃になると、作家や専門家を反対に撹乱させるかのように、奇抜な人選で登場する者たちがその書物をそのテーマを語る、いや遊びだすのだ。


『チャリング・クロス街84番地』という本である(ヘレーン・ハンク 講談社)。ロンドンの古書店の店員とニューヨークの女性の文通。その手紙だけで構成された小説である。これは私も読んだことがあるけれど、本好きならとても楽しめる味わい深い小説だった。
この本のレビューにいきなり挿入されるのは、あの中川信夫のインタビューなのである。『東海道四谷怪談』『怪異談 生きてゐる小平次』の中川信夫監督だ。


インタビューはいきなり「あなたも大へんな量の手紙を書かれるそうですね」と始まってしまう。
「中川/ええ。大部分は葉書ですがね。ロケ先なんかで酒を飲みつつ、左手に葉書を持って筆で書く。一日五十通、書いたことがあります。これが最高。
Q /宛先はどういう……?
中川/家族宛です。五人いますから、ひとりずつ書いて、犬や猫にも書いて、あれだって家族だから(笑い)<中略>
Q /いったい、それほど書かかれるのは何故ですか。悦楽で?
中川/癖か病気ですかねェ(笑い)。短歌をやってからその延長かもしれない。尾崎士郎と同輩の高成二郎の歌に、「道という道はローマに通ずれば/ドン・キホーテよでたらめに行け」というのがあって、そのようなものではないか。つまり、無聊を慰めるというか、座興ですね。<中略>
しかし、じっさい手紙というのは不思議ですね。作家の書簡など、作品は堅苦しい人でも人柄が滲みでてくる。漱石や直哉、それに坪内逍遥にあてた会津八一の手紙など特にいい。でも、怖いものでもありますよ。十年ほど前に、古い友人が葉書で「安楽死を科学的に研究している」といって寄こした。この一行に憑かれて、私はこれを映画化しようと、十年間頑張って遂にならなかった。葉書の一行で人生曲がるのですからねェ」


「葉書の一行で人生が曲がる」インタビュー最後の言葉を使って、倉本は『チャリング・クロス街84番地』へと戻っていく。この芸もおもしろいのだが、手紙魔であるという一点においてだけで登場する中川信夫の話の内容、すごくないだろうか? 映画研究の角度からは見えない中川信夫がいる。
(実は、倉本さんのスクラップブックには切り抜きに日付けが書いてなく、ポスト自体も日付けはページごとに印刷されていないので、とりあえず1980年の切り抜きということでかんべんを)


もうひとつ同じ1980年の切り抜きから。「第二の現実」に属する植物を詳細に語る『平行植物』(レオ・レオーニ 工作舎)のレビュー。そこに突如挿入されるのはタモリのインタビューだ。
「Q /『すべての名前はその素性を明らかにする」とある。
タモリ/以前、僕も俺がこの鳥を最初に発見したら何と名づけるか、という遊びをやった。北海道でカモメを見て、エゾオオカモメとか。鳴かないやつはエゾオシカモメ(笑い)。これは知覚の問題だと思う。メジロというのは親父さんも爺さんもそう呼ぶし、文献もそうなっている。しかし、メジロを見てメジロだということが、果たして本当にメジロを知覚として捉えていることになるかということ。
Q /知らないほうが興味が湧くし、知る感動もあると?
タモリ/ええ。この本はそれをいいつつ、なお植物の自己主張という点まで突っ込んでいる。そこが凄い。僕は偉大な人間というのは、最後には自分がやっているものを守らず、捨てよう、遊ぼうとする人間だと思う。そうやって文化を軽いものにしていく。レオーニがここでやったことは、そういう偉大な人間の遊びだし、本当の凄みもそこからきているのだと思う」


タモリ、カッコいいいな〜!(マルコヴィッチの穴ならぬ、タモリの穴言語機械軽快に作動中!)


1980年代に入って、倉本四郎のテクストは、ハウスミュージックのようにどんどん強く響き渡っていく。もっともっと面白くなっていく。クラモト・リーディングは、まだまだ続きます!