チェコの女工映画を見る

9月1日は、東京都写真美術館ホールの「2005チェコ映画祭」に行く。11時の回の『ブロンドの恋』を見た。ミロス・フォアマンがハリウッドに行く前、チェコで撮影した1965年の作品である。


製靴工場に勤めるブロンドの髪の女工の物語。


私は60年代の女工たちをめぐる映像物語を何本も見てきた。日本、フランス、イタリア、アメリカ、ドイツ、ソ連……。まとめて思い出してみると、それは60年代の世界各地にあった工場に据え付けられたカメラが撮影した映像が同時に並んでいる光景だ。
その中のひとつのチェコの映像。


『ブロンドの恋』にはジャズで踊るダンスホールの映像が流れる。
60年代女工映画を見ると、ジャズのサウンドは労働現場の機械の音と対になっている。何人もの女たちが並んで働く労働の現場に流れていく機械のノイズ。この地球のある時代の工場の生産のあり方をフォーディズムという言葉で、いうことがあるけれど、生産のあり方をサウンドで聞き取るなら「機械音+ジャズのサウンドコラージュ」のスペースとして50〜60年代の工場はある。


『ブロンドの恋』は、ズルチという地方の街の女工と、プラハのピアニストのアバンチュールの物語である。多くの女工映画と同じく、都市と地方の格差がドラマを作っていく。工場という安い労働力があつまるスペースには、都市と地方の格差が絶対必要だ。
資本主義、社会主義問わず現れてしまう都市と地方の差。いや、工場主義という共通性。このような形で人が集まってくることを憎む。このような形で人が集まってきた場所である工場。このような場所を嫌悪する。(と同時に私は大森に育ったから、大森・蒲田・羽田の中小工場地帯の素晴らしさを記憶している者だ)どうしようもなく酷い場所であったことを忘れないために、世界のたくさんの女工映画はある。そして今でも世界各地で女工映画は作られている。