フランスの暴動も、80年代「わたし」問題を思い出させてしまう

自由ラジオの場合、「ある日、あるテーマでラジオをする」と決めることは、決めた時からその日まで、自分というものを、その日の仲間たちの話し合いのイメージに向かわせながら生きるということだ。


今度の土曜日に、横浜トリエンナーレのFMヨコトリで、仲間たちと1980年代について語り合おうよと決めた時から、やはり体や心はいつのまに、土曜の午後に80年代について語りあっている自分たちのイメージに向かっている。


このblogに、前後したけれども「自分のことを僕と呼ぶ女性」について書いたのも、やはりある方向に向けてしまっている自分があるからだろう。大塚英志の本のタイトルではないが、1980年代は確かに「おたく」の時代だったと思うからだし、もっといってしまえば、「おたく」という二人称を前面に出すことで「わたし」という一人称の問題を隠しきってしまった時代だと痛感していたからだろう。


こうした体と心で、今、フランスの地で起こっている移民の若者たちの暴動のニュースに触れると、1980年代の日本で聞いた見たワールドミュージックは「ハメ撮リされたAV女優のような音楽ではなかったか」というとんでもない言葉が頭をよぎる。


ワールドミュージックイデオロギーは、フランスの移民政策と深く関わっているのだという。
(このことについては、「フランス語系人のBO-YA-KI」というblogで勉強させていただいた
http://blog.goo.ne.jp/raidaisuki/d/20051108
このことを台詞にすること、こんなことになるのかな。


A−−−「おたく」の信じている宗教は素敵だと思う、また「おたく」が演奏する音楽も素敵だ。しかし、この都市で暮らすということは近代的な「わたし」として生きてもらうということだ。だから、その「わたし」がコントロールできる宗教や音楽をやってくれ。休日には、そんな宗教や音楽をやってくれ、「わたし」も楽しいし、変わった友人はそこからインスピレーションを得るということだし……。その他の日は、「わたし」のために働いてくれ、わかったかい?「おたく」さん。


B−−−「おたく」はほんとにはっきりものをいう嫌な野郎だ。けれど、もう「わたし」も故郷にあるというジーサンの家には戻れないから従ってやるよ。この都市の「わたし」と故郷の「わたし」とは違うことはよくわかっている。違った「わたし」が信ずる宗教や演奏する音楽が、「わたし」の故郷のそれとは違ってくるのはあたりまえのことだ。特に、このはっきりものをいう奴がいっぱいる都市でできた音楽は、そういった本質をどこでももっている世界中の都市で、よく響くしね。だがな、ただの休日の慰めじゃないよ、まあ、これで稼がせてもらって、「おたく」をあっといわせてやるよ。


Aーーーああ、せいぜい期待しているよ。「おたく」がこれからする音楽は、いい音楽になるだろうさ。なぜなら、近代的なこの都市の体験を通過した音楽だからさ。


Bーーーまあ、そううまくまとめんな。音は外からやってくる。都市や故郷の外さ。そして「おたく」や「わたし」をひきずりまわすんだから。


Aーーーへっ、「おたく」の前にいるこの「わたし」も、充分にひきずりまわされた後の「わたし」だってことを忘れんなよ!


こんな会話が浮かぶのだ。暴動に関するニュースを新聞で読んで思ったことは、音楽やサッカーなどの分野ではこんな威勢のいい会話が成り立つのだろうが、他の労働ではなかなかできないのだろうなということだ。Aのような嫌な野郎の言葉を聞かせられるだけだったら、ほんとにBは、クソイマイマシクなってあばれたくもなるだろう。フランス的ものいいは、その後にしっかり反論したりふざけたりすることができなければ、最悪だから。


さて、日本の80年代のワールドミュージックである。このような会話の後に演奏されている音楽であることを、1980年代の「わたし」はまったく知りませんでした。
私は明日、韓国パーカッションバンドPURIのライブに行くのだが、その公演パンフを作っていた時、そういえば80年代、彼らの先輩にあたるサムルノリとか聞いてたなと思っていた。そして在日の友人たちが、こうした音楽を主体的にとらえかえそうとしている姿を見ていたのだ。それをもっとしっかりとみつめていれば、あのような会話が浮かび上がった……?、いや、無理だったな、変にずれていってしまって、日本人と在日の間で会話は生まれず、そしてワールドミュージックの前提にあのような会話があることなど考えもせずに、ただステージのミュージシャンを見つめていたのだ。

それでは「わたし」がいないだろう。それは出演者だけの映像で。
そして2005年の私は、あの実に80年代的映像を思い出してしまったのだった。